第三章 森 和志

「森さん、幽霊なんてものはいないんですよ」分かっていない。進歩が感じられない。こいつは全く分かっていないのだ。何でこんな奴がうちの専攻にいるのか。謎である。断っておくが、僕はこいつが人間として嫌いな訳ではない。ただ、不思議で仕様がないのである。
 梅雨も明けて夏を感じるようになった今日この頃、研究室のメンバー三人で大学に程近い居酒屋を訪れていた。テーブルを挟んで正面にいるのが学部四年の柊春秋、その右隣でいつものように無言を貫いているのが修士一年の田畑遥である。シュンジュウはうちの大学からそのまま、田畑は同じ路線で幾つか離れたところにあるT大から、どちらも今年の春から我が研究室に所属した。とはいっても昨年僕が持っていた演習に出席していたのでその頃からシュンジュウは知っているし、昨年夏の院試に合格した田畑はすぐに研究室に挨拶に来たので、彼のこともやはり知っていた。何だかんだで二人とも一年そこそこの付き合いになる。
 話は戻るが、幽霊がいると思うか、である。二人が研究室に所属してから何度この質問を投げたかは覚えていないが、これだけでもシュンジュウと田畑の出来の違いは歴然である。今は田畑のことは置いておくことにして、シュンジュウの話をしよう。こいつはそもそもの考え方が帰納的である。演繹的でないからには帰納的なのである。そもそも質問に対する回答にすらなっていない。ありもしないものを取り扱おうとしているのである。
 とまあ、シュンジュウ批判はこの程度にしておいて、などと考えているといつの間にか田畑の姿がない。話が途切れたことでシュンジュウもそれに気付いた様子である。
「あ、それ」田畑の座っていた場所に何か書かれた紙切れと酒代と思われる金が置いてあった。
「ご馳走様でした。終電が近いので帰ります」紙切れにはそう認めてある。「あいつ帰ったのか」「いつの間に」ほぼ同時に僕等は呟く。シュンジュウが近くにいた女性店員に会計を頼むと「はい喜んでー」と彼女は決まり文句を口にした。その言葉を聞くと、いつも思うことがある。新興宗教ぽいな、と。すぐに戻ってきた彼女が差し出した伝票には計三九一五円と書かれている。田畑の残して行った金額は一三〇五円。ピッタリである。いかにも田畑らしい。しかし三で割り切れない場合はどう対処したのだろう。今度訊いてみることにしよう。

 流石に夏が近づいてきたこともあって、日付が変わる時間だというのに店の外はムッとした生暖かい空気に包まれていた。折角の鮮やかな橙色のTシャツに汗が滲み、黒い斑点になってしまっている。まあそんなところ、自分以外誰も気にしていないのではあるが。
「あー暑い、暑い、暑い」知らず知らずのうちにそう呟いていた。首都圏の暑さは九州のそれとは質が違う。九州の暑さは、日が落ちると涼しい風が吹き心地よく汗を吹き干してくれる。その点こちらはヒートアイランド現象により、夜になっても湿気が溜まりジメジメと蒸し暑い。
「まぁ夏ですからね。『暑い』って言えば言うほど暑くなると思いません?」それは感じ方の問題であって、実際に気温が上がる訳でも湿度が上がる訳でもない。全く、非科学的なことを平気で言う奴だ。
「お前、小学生みたいなことを言うね。じゃあ冷たいものの名前でも交互に言っていくか。オホーツク海」そうやって僕等は途中まで同じ道程を辿る互いの帰り道を歩き始めた。
「今年の浦和レッズの成績」「サークルの、特に数人を除いた女子連中の僕に対する態度」などと、取り留めなく冷たいものを挙げているうちに、シュンジュウと別れる直前の商店街に入っていた。深夜の商店街には殆ど人影もなく、自動販売機が放つ煌々とした光とぼんやりした街灯の明かりとである種幻想的な、といっても中世的魔法的なものではなく、日本的昭和的な雰囲気を醸し出していた。
 と、そんな感傷に浸っていると、前方の電信柱に凭れ掛かっている如何にも酔っ払いといった感じの女性の姿が見える。
「何だアレ?」珍しくもないが、発見したので取り敢えずシュンジュウに振ってみる。
「何をしているんでしょうかね?」そりゃあ呑み過ぎて歩けなくなったから酔醒ましでもしているんだろうよ。こういうときは見て見ぬふり、触らぬ神に祟りなし。早く通り過ぎようぜ。あーやだやだ。
「あれ、もしかして……和辻さん?」俺はそんな名前じゃないぞ、流石馬鹿野郎だ。と思って振り返ると、何とシュンジュウの奴あの酔っ払いに語り掛けているではないか。
「何?  知り合い?」少し距離を置いて尋ねる。というか、それはないだろうお前。もしかしてそれがさっき言っていたサークルの女子の数人のうちの一人か。あーそうかそうか。納得。そうこう思考を巡らせていると、明らかに酔った声で酔っ払いが「よ、酔ってませんよ」などとほざいた。
「本当に酔っている人に限ってそう言うよな。つまり彼女は酔っている。あれ? でも本当に酔っていない場合はどう答えたら良いだろう? 『酔ってません』と答えても『酔ってます』と答えても酔っていることになるよな。なぁシュンジュウ、どう答えたら良いと思う?」色々考えていたら頭がこんがらがってきた。シュンジュウはその彼女と何やら喋っているようだ。あれ、だから字面を受け止めるのであればどちらの場合も酔っていることになる。よって、やはりこの場合、アルコール検知器を用いるしかないし、それが一番正確であろう。しかし一体何PPMほどの含有量で酔っているといえるのだろうか。その辺の値は詳しく調べてみる価値がありそうだな。はたまたアルコール検知器はどこで購入できるのだろうか。これはなかなか厄介な問題になりそうだな。
 ああだこうだ考えながらふと顔を上げると、何と彼女がシュンジュウに抱きついているではないか。おいおいこんなところでか。じゃあ俺はあれか、邪魔者か。別に良いけど。この場はさっさと去ろう。と、「うぇっ」という声が聞こえた気がしたが無視して行くことにした。
「あのさ、シュンジュウ。俺、急用を思い出したから帰るよ」あとは上手くやってくれ。この時間に急用なんてある訳がないだろう。後日問い詰められたときのために言い訳を考えておかなければ。僕は足早にその場を去り、分かれ道を自宅の方へと進んだ。

 無心に自宅前まで早足で歩いてきたが、思い返してみればあの場から立ち去る最後の瞬間に何か違和感を感じた気がする。抱き合ってはいたが最後に何かおかしな声というか音のようなものを耳にした気がする。足元に擦り寄ってきた猫を撫でながら一通り考えた結果、ちょっとだけ、ちょっとだけシュンジュウ宅を覗いてみることにした。まあ一応人間としては真っ当だから、変な間違いは起こさないだろうが。当然こちらもそれを理由に強請ろうなんて考えは微塵もない。ただ少し遠目に眺めるだけ、少しだけあっちの猫と遊びに行くだけである。

 そもそも物事という奴は突き詰めていけば非常にシンプル、分かりやすいものでなければならないと僕は考えている。それに比べてこれはどういうことか。現在僕の目の前に積み上げられている論文の殆どは非常に分かりにくいし、本だってそうだ。シンプルな事柄は冒頭の導入部だけで、あとは事細かに何の役に立つのかも分からない小さな定理が列挙されている。ある程度の肉ならば美しいプロポーションを保てるが、それ以上の肉は骨格を隠し、ただ醜く身体を覆うだけである。
 クーラーの冷気と窓を叩く雨音によって、気怠さは最高潮。机に突っ伏して目を瞑ると非常に心地良い。毎日昼過ぎには研究室に来るのだが集中し始めるのは日が落ちてからで、それまでは大体珈琲を飲みながら小説を読んだり、音楽を聴いたり、論文雑誌をぱらぱら捲ってみたり、ネットサーフィンをしたりしている。幸いうちの研究室、つまり数研には自分以外に学生がいないし、この院生室も一人で快適に使わせてもらっている。どんな格好をしようと気にしないで良いし、屁が出そうになったら出せば良い。あとはサッカーが観られる設備が整えば完璧なのであるが。そんなことを考えながら危うく睡眠に入ろうとしていた矢先、ノックする音が聞こえ、答える間もなく扉が開いた。
「ここが院生室になるから。そこにいるのが修士一年の森くん。分からないことがあったら彼に訊いてくれれば良いから」半覚醒状態から完全に覚醒した僕は振り返ってうちの先生の方を向いた。今分からないことは僕に訊け、という声が聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。
「ああ森くん、彼が田畑くん。来年からうちの研究室に所属することになったから。色々教えてあげてね。僕は今から教授会があるから、あとはよろしく。じゃあ」そう矢継ぎ早に捲し立てて先生は去って行った。何と無責任な人なんだろうか。まあ、重要な仕事があるとき以外は学校に来ない、つまり週に三、四日しか出勤しない大学教授のどこが無責任でないんだろう。
「えっと、何君だっけ?」彼にはソファを勧め、自分はサンダルを脱いで丸椅子の方に腰掛けた。
「田園に畑で、田畑です」聞き取りやすい澄んだ声で彼は答える。
「二重にシンメトリィか」珍しい名前ではないが、良い名前ではある。これだけの対称性があればさぞ良い性質を持った等質空間を構成していそうだ。ではそこに作用する等長変換はどのような作用なのか。真性不連続なのか、はたまたそこから構成される群はどの程度離散群を含むのか。考え出すと幾つもの事象が同時に脳内を駆け巡る。
「あの、森さんは何の研究をされているんですか」不意に田畑が僕の思考を遮った。
「一応専門はグロモフの双曲群なんだけど、知ってる?」余りにもマイナで、この分野を日本で研究している人を三人しか知らない。
「ええ、ド・ラープの本を読んだだけですが」学部生でその本を知っている奴を君以外に知らないけどね。何てマニアックな奴だ。それらしい格好をしていないのに、中身はひどく数学だ。数学のこと以外考えていないのではないだろうか。
「森さんはずっとK大ですか?」ああ、考えてるんだな。安心した。
「そうだよ、ここはゆったりしてて良い。T大もそうだよね」
「ええ、どちらも独りで数学をやるには適していますね」同感。関東にある旧帝大みたいに大勢の中ではゆっくりと考えることも憚られる。そういう中でゆったりできる人間は僕の及びもつかない程に出来る奴なんだろうけど、やっぱり僕にはそういう環境は向かないと思う。

 それから小一時間程数学のこと、大学院での生活のこと、大学周辺の事情について話した後、今日はありがとうございました、と言って田畑はソファから腰を浮かせた。そのまま送り出そうかとも思ったが、最後に一つ質問をすることにした。
「時に君は、幽霊っていると思う?」失礼のない限り初対面の人にはこの問いを投げ掛ける。これにどう答えるかによって、少しだけ相手のものの捉え方が分かるからだ。
「いないと思います」答え方としては正解だな。
「じゃあ訊くけど、何で幽霊がいないと思う?」さあ何と答えるか。
「すっきりするからです」へえ。先程の会話で分かってはいたが、なかなか頭の切れる印象を与える回答である。こういう答え方をされると少しだけ嬉しくなってしまう。
「ひょっとして君は、自分の目で見るまでは信じられないってタイプ?」調子に乗って更に質問を浴びせる。
「いいえ」何と単刀直入な。
「へえ。じゃあ、幽霊の定義次第だ、とか言い出すタイプ?」我ながら嫌な訊き方だ。しかし自然科学を専攻する人間には定義という言葉に何か神聖な価値を見出す人もいる。それはある意味宗教掛かっていて、僕は余り好きになれない考え方だ。
「いえ、僕と森さんの間で幽霊の定義にさほど違いはないでしょう。むしろ問題は……存在の定義です」良い答えだ。こいつはその言葉に振り回されていない。何だか少しだけ来年度が楽しみになった。
「では失礼します」礼儀正しく御辞儀をした後、扉を開けて田畑は出て行った。窓外では未だ雨が降り続いていた。
 あれ、田畑は傘を持っていたっけ。

「何だ、僕の勘違いか。面白くない」まあ、どっちにしろ面白いは面白いのだが。
「別に良いですよ、面白くなくて」わざと作ったような膨れ面で操は言う。真夏の日差しが照り付ける窓際ではいくらクーラーが効いていても首筋にじりじりと熱が籠もる。
「しかし呼び出しておいて本人が急用とはどういうことかね。珍しく午前中に起き出してここまで来たっていうのに」タバスコをたっぷりと振り掛けたナポリタンをフォークに巻き付けながらぼやいた。まったく。
「そうですよね、無責任です。でもこんな快晴の日にこうやって快適な環境でランチを頂くなんて、これはまた新鮮で素敵じゃないですか」不在のシュンジュウを気にも留めていない様子で、操は無邪気にカツサンドを頬張っている。夏休み真っ盛りのキャンパスは普段とは見違える程に人が少ない。いつもは学部生で溢れかえっている食堂にはちらほらと研究室のグループや練習で出てきたであろう運動系サークルらしき学部生達、それと明らかに大学とは無関係らしき老夫婦がいるだけである。
 皿の底に残った肉やピーマンや玉葱の滓を匙で器用に集め、その様子を興味深そうに直視している操の視線を痛い程感じながらも口に放り込もうとしたとき、『デイドリーム・ビリーバー』の心地良いメロディが聞こえてきた。シュンジュウもしくは田畑からのメールである。つまりシュンジュウからである。取り敢えず匙の上の物を広げた口に放り込み、ポケットを探って携帯電話を取り出して画面を眺めた。
「オ待タセシテ申シ訳有リマセン。三時頃ニハソチラニ到着デキソウデス」字面だけを読み上げる。何と、三時といえばまだ二時間弱もあるではないか。全く何をやっているんだか。
「三時迄ってまだ大分時間がありますね。どうしましょう」既にカツサンドを食し終えた操は、御自由に……の冷麦茶を飲みながらつまらなそうにしている。余りにも暇だったらしく、カツサンドを包んでいたラップはいつの間にか飛行機の形に折られていた。
「うーん、確かにここにいてもしょうがないね。うちの研究室でも覗いてみる?」あそこなら珈琲も飲めるしゆっくりできることは間違いない。
「あ、それ良いですね。是非そうしましょう。訪問のついでに手土産でも買っていきましょう。ついでに食後のおやつも」そういうことになったので、食器を片付けてから食堂の直ぐ裏にある購買に立ち寄ってから炎天下の外界に足を踏み出した。

 学部生の多くが通うキャンパスから僕等の研究室があるキャンパスまでは歩いて十分弱掛かる。一度登った坂を下り、再び登るという何とも不経済な道を通らなければならない。幸い景色の良い場所なので余り苦にはならないのだが。
 丁度一つ目の坂を下り切ったところに黒いのと茶色いのと、二匹の猫がいた。この辺でたまに見掛ける奴らだ。買い物袋を提げた操と僕が近付くと、気配に気付いたらしく身を翻して逃げる体勢を取った。しかし腰を屈めながらゆっくりと近付くと、一応危害は加えられないと悟ったらしく、じっとしていた。黒い方の頭を優しく撫でてやると少し気持ち悪そうに首をくねくね動かした。ならば、と思って抱きかかえようとすると流石に危機を感じたらしく、跳ぶように二、三歩移動し、じっとこちらを見据えた。
「猫、お好きなんですか?」
「熊よりはね」熊と遭遇したことなんて今迄一度もないのだが。
「猫が喧嘩してるときの鳴き声って、赤ちゃんの泣き声と物凄く似てません?」多分通説である。初めて一人暮らしを始めた頃、春から夏に掛けて何度そう思ったことか。シュンジュウと田畑が研究室に所属した当初、二人にその質問をしたことがある。シュンジュウは真っ向から否定し、田畑は一瞬フッと口元を動かしただけで答えなかった。
 そうこうしている内に研究室の建物に到着した。夏休みなので正面の自動ドアは電子ロックが掛かっている。認証機に創立記念日の日付を入力し、扉を開けた。
「古めかしい建物なのに、セキュリティは万全ですね」うきうきした調子で操が言った。どこが万全なものか。こちらのキャンパスの電子ロックは基本的に同じ番号で開錠できる。
「盗られると困る物が沢山あるからね。うちの研究室にはないけど」気のない返事をしておいた。入ってすぐ右の階段で二つフロアを上がり、左に進んで突き当たりが僕等の研究室である。休み中だというのに殆どの研究室には人がいる様子である。実験系のところは大変そうだな。
 研究室の鍵を取り出して鉄扉を開けようとすると、あれ、開いている。昨日、といっても今日の早朝なのだが、ちゃんと鍵は掛けたはずだよな。誰かいるのか。少し不審に思いながらも扉を開けると、電気も点いていない部屋からクーラーの冷気が外に流れ出してきた。うーむ、鍵を書け忘れ、クーラーも消し忘れるなんてことは今の今迄に一度もない。泥棒にでも入られたのだろうか。後ろを振り返ると、操の不思議そうな表情が目に飛び込んできた。
「ああ、取り敢えずどうぞ。汚いけど適当にその辺に座って。珈琲と……あとは番茶か玄米茶だけど、何にする?」明かりを点け、室内に操を招き入れた。
「じゃあ番茶で」良いけどさ。番茶かい。やっぱりこの娘は何だか大分ずれている。
 インスタント珈琲の粉と番茶のティーバッグを棚から取り出し、微妙な染みが折り重なって洗っても落ちなくなった珈琲カップを二つ、電気ポットの前に置く。湯が少なくなっていたので水を足し、沸騰ボタンを押した。「お湯が沸くまで少々お待ちを」
「何か研究してるって感じですね。積み重なった本が今にも崩れそう」そりゃそうだ、研究室ですよ。特に理論系のところは本と論文ばかりである。
「今君が言った、今にも本が崩れそうになっているのが僕の机で、その左隣がシュンジュウ。一番奥のでっかい本棚の前が田畑って奴だよ」そう言って田畑の机に目を遣ると、何とノート型のマッキントッシュが置いてあった。前からあったっけ、記憶にない。例のアタッシュケースの中の札束を使ったのか。しかもどうやら電源が入っているようだ。
「お土産、ここに置いておきますね。あ、でも二つしかない」先程購買で買ってきたらしいカップラーメンを二つ、ビニール袋からテーブルの上に置いた。
「まあ、今日の罰としてシュンジュウにはなしだな」当然である。ったく、考えるだけで腹が立ってくる。早く来やがれこの野郎。
 そんなことを操と喋っていると、電気ポットの沸騰音が静まった。そして、沸騰完了の電子音が鳴るのと、ガチャリと鉄扉が開けられるのがほぼ同時であった。

「あれ、田畑何してんの?」いつもはメモも取らずに小説でも読むかのように数学書を読んでいるのに、ふと気付くと今日の田畑は本のページも捲らず計算用紙にカリカリと鉛筆を走らせている。
「いえ、特にこれといった意味はないです」よく分からない。計算用紙を盗み見ると、どうやら規約なしで何らかの変分に関するテンソル計算をしているらしい。傍らに置いてある本は古めかしいリーマン幾何のものであった。
「でも、専門じゃないよね。そんな面倒臭い計算を進んでやるなんてどういう風の吹き回しだよ」彼の専門は代数幾何寄りの複素幾何なのだが、ホモロジー代数的なアプローチならまだしも変分である。本職に近い僕でも辟易する程の計算だ。余程必要に迫られない限り手を付けたくない。
「ちょっと気になることがありまして。これ、知りませんか?」そう言って本棚から取り出したのは、優に三百頁はありそうな論文の束であった。著者はグレゴリー・ペレルマンとある。最近は音沙汰がなかったが、ペレルマンといえばその論文が難解過ぎて理解できないことで有名な古典的微分幾何のエキスパートである。
「ペレルマンか、新作? 最近全く聞かなかったけど」焙じ茶でも頂こうと流しに向かいながら訊いてみる。
「どうやら、幾何化予想が解けるみたいなんですよね」棚から取り出した珈琲カップを危うく落としそうになる。
「そ、そうなの?」
「まだ確認できていませんが。というか、計算を追うだけで大変です」数学に対して田畑が弱音らしき言葉を吐くなんて初めてだ。まあ、一見しただけで途方もない計算に思える。もしかしていつも足元に大切そうに置いてあるあのアタッシュケースには最近の論文がギッチリと詰まっているのかも知れない。そんなことを考えていると、ギィと嫌な音で軋む鉄扉が開いてシュンジュウが姿を現した。
「どうも、いやー暑いですね。もう夏ですかね」余りにも呑気なことを言うこの男に失笑してしまった。お前も少しは田畑を見習えよ。別に嫌いな訳ではないのだが、どうもこいつからは数学に対する愛、というと少し気持ち悪いが、そういったものが全くといって良い程感じられない。修士迄で卒業し就職するつもりとはいっても、そんな気持ちでは修士論文だって厳しいぞ、と言ってやりたくもなる。
「二人とも浮かない顔してどうしたんですか? ってそんなこと言ってる場合じゃないんだ、学生課に行ってこなきゃいけないんですよ。じゃまた後で」そう言って荷物だけを放り出し、すぐに出て行った。何なんだろう。田畑は見向きもせずに再び机に向かってしまった。
 突如訪れた二つの衝撃によって頭の片隅に遣られていた焙じ茶を淹れ、ソファに凭れ掛かると仄かな睡魔が襲ってきた。じっと目を閉じると瞼の奥がじわりと温かい。一口茶を啜り窓外に目を遣ると、斜め四十五度に西日が差し込んでいた。まあ全く噛み合いそうにない三人ではあるが、そこそこ仲は良いのである。そういえば、僕等の唯一の共通点といえば三人が三人ともマイペースなところなのかも知れない。ふとそんなことを思った。

 幸福なことに、僕の実家は裕福ではないが貧困でもないごく平均的な家庭で、特に多大な情熱を持って説得した訳でもないのに大学院進学を認めてくれた。両親には本当に感謝している。しかし、そういうものを感じながらも特に勉学に邁進しようという心意気があるでもなく、ただただ今やっている目の前のものが好きという理由だけで、理解したいという理由だけで数式や概念と向き合っている。もし何かの拍子でそれらを嫌いになったり、どうでもよくなったり、向こうからそっぽを向かれたりしたらすぐにでもやめることができる。たまには他の分野に浮気もするし、気が向かないときは一日中小説や漫画を読んでいることもある。そんな、恋人のような存在である。
 この先博士課程に進学するか就職するか、それとも別の道を歩むのかは、気持ちの上では決めているが不安は尽きない。いつどこで何が起こっても、最低限対処できるだけの身支度は常に整えているつもりである。例え今目の前にお化けや幽霊の類が現れようとも、すっ転んでぶっ魂消たりはしないつもり。スプラッタならば少しだけ後ずさりするかもしれない。

 という訳で、今現在、目の前に五十路絡みの頭の禿げ上がった幽霊がいる、というのは語弊があるが、兎に角可視化された何ものかがある訳である。昨晩目撃した状況からどうなっているのか、からかってやろうと思ってシュンジュウ宅の前まで来て電話を掛けてやったのだ。そうしたらどうだろう、幽霊がいるだの一億円がどうのという話をしやがる。ああ、お前はとうとう虚言癖まで備えてしまったか。一瞬そう思ったが、中に入ってみるとどうだろう、意外や意外、どうやら本当の幽霊らしい。これは良いサンプルになりそうだ。それに宝探しってのも面白そうで良い。おまけに探し当てたら分け前をくれる約束だって取り付けた。良いじゃないか、結構結構。何だか面白いことになってきた。
 そういう経緯で僕達は、このくそ暑い真夏の日々をなるべくなるべく日差しを避けながら宝探し、もとい宝くじ探しの冒険へと旅立ったのである。何だか学部生乗りに戻ってしまった、いかんいかん。