第二章 田畑 遥

 七月の早朝。汗が噴き出ないぎりぎりの暑さ。姿は見えない蝉の声。国立T大学の図書館前の桜並木は、今は緑。並木に沿って等間隔に配置された木製のベンチの一つに腰掛けて数学書を読んでいると、背後から急に声を掛けられた。
「暑そうだね」
「うん」振り向かず、本から目を離す事すらせずに、僕は言った。
 誰なのか、およそ見当は付いていた。それに相手が誰であろうと、勉強に集中している最中に声を掛けられて反射的に返答したと説明すれば、失礼に思われる可能性は低いだろう。
「隣、座ってもいい?」
「少なくとも、僕は構わない」
 すると声の主は、左手から回り込みながら「では、誰が構う?」と訊いた。
「さあ。気になるなら、周りの人に尋ねてみたら?」
「君以外、誰もいないよ」
 僕は顔を上げた。
 目の前に、自分と同い年くらいの女性が立っていた。紺色のワンピースの袖から伸びた白い腕。肩まで伸ばした黒い髪。理知的な眼鏡を掛けているが、その奥の目には幼さが残っている。年下なのかもしれない。
 彼女の言うとおり、周囲を見渡すと他に人の姿は無かった。僕は視線を本に戻し、数式をなぞりながら「君がいる」と言った。ジョークとしてなら面白くないと思ったが、事実を述べたまでなので気にしない事にして勉強を続けた。
 試験勉強に集中しながらも意識の片隅でリアクションを待っていると、やがて「失礼します」という声が返ってきた。
 僕はそっけなく「どうぞ」と言ったが、ふと気になって再び顔を上げた。ひょっとして、その場を去るという意味の「失礼します」なのではないかと思ったからだ。まあ、それならそれで構わなかったが。
 見ると、彼女は僕の隣に腰掛けた。艶ある髪が、水のように柔らかな印象を与えつつも整然と美しく揺れた。「勉強の邪魔をするつもりはないよ。すぐに退散するから」
「退散?」その表現が少しだけ引っかかった。「悪霊退散」の四字熟語を連想したが、間違っても口にしないように注意して、さっきから気になっていた事を訊こうとした。
「あの、ほぼ確信しているんだけど、もし人違いだったら失礼だから……まあ、そうでない場合は今からする質問こそ失礼なんだけど……」掌をゆっくりと彼女に向けた。「君は……七穂(なほ)?」
「いえすあいあーむ」彼女は爽やかな笑顔を浮かべた。だが、すっと表情を消したかと思うと、ぷくうと文字通り頬を膨らませて「もう、何度目?」と言った。
「四度目」僕はすぐに答えた。「アニバーサリィだ」
「あにばさり?」首を傾げ、胸の前で手を広げる七穂。
 そのピエロみたいなシュールなジェスチャは放っておいて「人の顔を覚えるのは苦手」と言い訳をした。彼女が本気で腹を立てていない事は分かっていたが、それでもばつが悪く感じて鼻の頭をかいた。
「日曜の朝から勉強?」七穂は話題を変えた。
「もう、院試が近いから」
「いんし?」今度はノージェスチャ。
 指を挟んで本を閉じて「大学院の入学試験」と教えてあげた。
「試験があるんだ。大変だね」
「はあ」あまり大変だと思っていなかったが、反論する気も起こらず、頷くでも傾げるでもなく、その中間の方向に首を微動させた。「まあ、休日の方が大学が空いてるし、この程度の暑さなら気持ち良い」
「でも、もっともっと、暑くなるよ」意地悪そうに言う七穂。
「そうだろうね」僕は空を見上げた。雲一つ無い、晴れた夏の空。目の前のまだ開いていない図書館の白い壁の輪郭よりも上は青一色。
 自動ドアの奥の仄暗い館内を指差して「もっと暑くなる頃には、図書館が開いてるから問題無い」と言った。「或いは……カフェにでも退散するよ」

 八月の昼下がり。窓の外でアスファルトを激しく叩く雨。気温は比較的低いが、蒸し暑い。年代物のエアコンが風向きを変えようとガイドを回転させる度にがらがらがらきししきしぃ、と悲鳴を上げる。
 僕は、K大の数理科学研究室——略称「数研」の院生室を訪ねていた。当時は国立T大学に通っていたが、私立のK大大学院への進学が決まっていた。その日は、研究室見学のためにT大から電車で数駅隣のK大まで足を運んだ。
 教授に挨拶をすると、早々に学生を紹介され、僕の相手を引き継がれた。数研には学生が一人しかいなかった。修士課程一年の森和志さん。オレンジ色のTシャツ姿が若々しく、胸元には黒字で大きく「ウコン」と書かれていた。マニアックなファッションだな、と思った。中身はと言えば、僕とは対照的に気さくで、良く言えば人懐っこく話し好き、悪く言えば図々しく喧しい人だった。
 院生室に案内されて、カビ臭い薄汚れたソファと、表面の剥げたスツールにそれぞれ座って向かい合った。
「えっと、何君だっけ?」そう言いながら森さんは、サンダルを脱いで、丸いスツールの上で胡座をかいた。行儀は悪いが姿勢は良く、まるで仙人のよう。
「田園に畑で、田畑です」僕は人生で何度も繰り返してきた説明をした。音から文字がユニークには定まらない名字を持つ人間の宿命だ。機会は少ないが、子供相手に説明する場合は、田園でなく田圃と言う。
 僕の名前を聞いた森さんは、ふっと鼻で笑い「二重にシンメトリィか」と言った。
 僕は感心した。その指摘をされるまでの時間の最短記録を塗り替えられた。
 その後、教授と森さんの研究テーマや、数研での研究生活、それを含めたK大での院生生活などについて話してくれ、和やかな時間が流れた。
 話が一段落するのを見計らって、僕は森さんにお礼を言った。「あの、今日はありがとうございました」そして、ソファから腰を浮かせた。
「時に君は」森さんは早口な方ではないのに、その六文字の台詞をスルリと絶妙なタイミングで滑り込ませた。
「はい」僕は座り直し、続く言葉を想像した。
 自分の事は殆ど話していなかったので、僕の卒業研究のテーマや趣味などについて訊かれるのだろうと予想した。そして見事に裏切られた。
「幽霊っていると思う?」真面目な口調で森さんは言った。
 質問の突飛さに僕はとても驚いたが、顔には出なかっただろう。昔から無口、無表情、無愛想と言われ続けてきた。何を考えているか分からないとよく言われるが、それはお互い様だし、僕でなくとも、他者の考えている事など分からない筈だ。また、存在感が薄いとか、幽霊のようだと言われる事もある。
 僕は「いません」と即答したい衝動に駆られたが、森さんの真剣な表情を目にして却って冷静になり、「いないと思います」と答えた。
 恥ずかしい真似をせずに済んだ。思うかどうかを問われているのだから、「思う」「思わない」で答えなければならない。問題に対して解答を間違えるのはまだ良いが、回答の形式を誤るのは致命的だ。
「じゃあ訊くけど、何で幽霊がいないと思う?」予め用意されていたであろう、次の質問をする森さん。
「すっきりするからです」僕は正直に言った。
「へえ」森さんは不敵な笑みを浮かべた。
 僕は、僕の「すっきりするから」が「いない」でなく「思う」に掛かっている事が森さんに伝わったようで、少しだけ嬉しくなった。
 にやり、という古典的な擬態語が似合う森さんの笑みの後に生じた一時の沈黙を、エアコンの悲鳴と雨の音が支配した。
 僕は院生室の隅に転がっている明らかに研究とは無関係であろう、スケートボードや鉄アレイや花火やバーベキューセットや飯ごうを眺めながら、続きの言葉を待った。
 釣りみたいだ。子供の頃、父親に連れて行かれてやらされたものの全く興味が持てなかった釣りを思い出した。糸を垂らして待ち惚けている内に、当初の目的たる魚の事など忘れて水の音に聞き入ったものだ。
「ひょっとして君は、自分の目で見るまでは信じられないってタイプ?」
「いいえ」僕は首を横に振った。
 自分の目で見なくとも信じられる物もあれば、自分の目で見ても信じない物もある。それに、そもそも信じるかどうかなんて自分で判断して決定する事であって、故に、信じようと試みて不可能な事象は無いと思う。
「へえ。じゃあ、幽霊の定義次第だ、とか言い出すタイプ?」
 また、タイプか。何故そんなにカテゴライズしたがるのだろう、と思った。どうでも良い事こそ気になる。だが、質問には答えなければならない。
「いえ、僕と森さんの間で幽霊の定義にさほど違いは無いでしょう。むしろ問題は……存在の定義です」

 十一月の、ある晴れた日。青い空。濃淡の円形グラデーション。千切られた綿菓子のような薄い雲。国立T大学の図書館裏の銀杏並木は黄葉し、目の粗いアスファルトの上に種子と共に散っている様は点描画のよう。
 視覚的に賑やかな地面を見下ろしながら歩いていた。前方正面、銀杏の絨毯の上に、こちらを向いて並んで静止している黒いブーツ。何も考えずに横に避けようとした時、声を掛けられた。
「銀杏、綺麗だね」
 顔を上げると、知った顔の女性が立っていた。グレーのセータに黒のスカートというシンプルな服装。
「君か」僕は呟いた。うまく発声できなかったので、咳払いをしてから「久しぶり」と付け加えた。
 彼女の名前は七穂。七つの穂、と書いて「なほ」と読むらしい。それ以外に、僕は彼女について何も知らなかった。学年や学部はおろか、そもそもT大の学生かどうかすら。ただ時々、こうして学内で出会っては実の無い話をするだけの関係。
「お疲れ?」心配そうな顔の七穂。
「徹夜明けで、今から帰って寝る所」
 僕は溜め息を吐いた。呼吸すら億劫なほど疲弊していた。体内が空洞のような感覚。
「途中まで一緒に行って良い?」
 僕は何も言わずに頷いた。意識しないと体が動かせない。
 並木道を二人並んで歩いた。多くの学生や職員が、こちらに向かって歩いてくる。彼らに逆流する格好で、正門を目指した。一コマ目の授業開始直前。通学、通勤のピークだ。
「この景色も今年で見納めかあ」七穂が寂しそうに言った。
「え? ああ、主語は僕か」
 七穂は銀杏の葉を一枚拾い、根元の部分を指でつまんでくるくると回した。
「でも、K大にも銀杏の木はあったはず」
 植物に疎い僕でも、桜と松と紅葉と銀杏くらいは知っている。
「それは楽しみ」微笑む七穂。
 七穂がK大の銀杏を楽しみにした所で意味があるのか疑わしかったが、僕は詮索するのが好きでないし、七穂も何も訊かれない事について少なくとも不満は無さそうだったので、僕は「へえ。銀杏、好きなんだ?」なんてつまらない質問をした。
「いえすあいどぅ」七穂は元気良く答え、視線を上げた。「この水色と黄色の組み合わせ、綺麗でしょ?」
「まあ、悪くない」
 ガリ、という音がした。足下に無数に落ちているギンナンの一つを踏んだ。
「ギンナンの匂いは好きじゃないけど」僕は苦笑した。
「え? 美味しいよ」
「へえ」意外だった。彼女が固形物を摂取するイメージが湧かなかった。
 七穂は口笛を吹き始めた。その曲は、名前は知らないが、何処かで聴いた事があるかもしれないと思った。いや、聴いた事は確実にある。
 ちょうど正門を通過する時、白衣を着た白髪の老人に出くわした。
「先生、おはようございます」
「んふふふふう」目の横の皺をより一層深くして、独特の笑い方をする老人。「おはようって言っても、君は今から帰って寝る所だろう?」
「ええ、まあ」
 僕は会釈してその場を去った。教授は研究室に向かった。僕のすぐ横の銀杏くるくる口笛ぴゅーぴゅーの謎の女性については何も言われなかった。
「ねえ、今の人は?」と七穂が訊く。
「うちの教授」
「へえ、いかにもハカセって感じ」
「そりゃそうだ」と言った後に、博士号取得者でなく研究者という意味なのだろうと気付いた。
 正門前の信号で七穂と別れた。僕のアパートは商店街を抜けた先にあった。信号を渡った時にふと振り返ると、七穂は既に消えていた。
 僕はアパートに着くや否やベッドに倒れ込み、薄れゆく意識の中で改めて認識した。ああ、やはりな、と。

 翌年の三月末。春の陽気と桜の花びらと、攻撃的な杉花粉に満ちた空気。T大の学位記授与式——通称「卒業式」当日。
 式には出席せずに、家で寝て過ごした。正確には眠っておらず、ベッドの上で毛布にくるまって目を瞑って考え事をしていた。毛布の感触が心地良い。僕は真夏でも冷房をつけて毛布にくるまる。毛布が好きで、「くるまる」という言葉の響きも好きだ。
 多少勿体ない時間の使い方ではあるが、形式的で無価値なセレモニィに参加して体育館に敷き詰められたパイプ椅子に座って退屈になって結局目を瞑って考え事をして時間の経つのを待つよりは、少なくとも体が休まる。
「体」という字と「休」という字は似ている。「体」から横線を一本取り除けば「休」になる。「休」は人偏と「木」で構成されている。「休む」という行為が「人が木に凭れる状態」で象徴されている事は間違いないだろう。では、何故「体」は人偏に「本」なのだろう。「人が本を読む状態」と人体、ヒトの肉体、ボディに何の関係が? ああ、「書物」でなく「元」か。解が出るまで二秒近くかかった。
 春。春は僕を削る。昔テレビで見た、杉林から放出される黄色い風。あんな肉眼でも見える濃度の花粉を吸収したら死んでしまいそうだ。春、僕はくしゃみを連発して涙と鼻水を垂れ流す。喉が乾くので水を沢山飲む。水だけでお腹が膨れる。食欲が衰え、食事量が減り、体重が落ち、体が怠くなり、思考が鈍る。
 ふと時計を見ると、卒業式はとっくに終わっていた。僕は起き上がって顔を洗って薬を飲んでから、歩いて研究室に向かった。
 お世話になった指導教官や先輩たちには「今までお世話になりました」と、スーツ姿の同期たちには「じゃあ」と、簡単にお別れの挨拶をして早々に退出した。
 四年間歩いて通ったT大。そこですべき事がもうすっかり無くなった僕は、何となく寄り道してから帰ろうという気分になった。
 脇の通用口から大学を出てキャンパスの塀に沿って南下して、中原街道の少し手前で左折して、洗足池に辿り着いた。
 アパートと大学の両方から近いために、授業の前や後や休日の朝など、四年間何度も通った。橋の上から鯉の挙動を観察しながら惚けたり、池に面したベンチに座って、植物の陰で眠るアヒルの寝顔を観賞しながらパンを頬張ったり、鴨の親子の遊泳を見物しながらおにぎりにかぶりついたり、足下に群がる物欲しげな鳩を無視して本を読んだりした。
 その日は珍しく、池の周りを歩いて一周してみる事にした。ゆっくり歩いても、二十分もかからない。
 平日の午後二時。老人と子供しかいない。洗足池は桜の名所でもあり、夜になれば花見客で溢れる。休日になれば、季節に関係なくカップルや家族連れで賑わう。水面には、手漕ぎボートや、足で漕ぐタイプのスワンボートが浮かぶ。
 僕はボートを借りた事は無いが、水辺と中原街道の両方に接したログハウス風のボートハウスで借りられる事は知っていた。そこに、駅前の学生向けの定食屋などと比べると少し値段が高めの、洒落た洋食屋がある事も。
「折角だから」「最後だから」「記念に」といった枕詞による合理的判断の放棄は滅多にしないと自覚しているが、卒業式をサボった代わりにその店に入ってみる事にした。どうしてその洋食屋が卒業式の代わりになると思ったのか、自分でも分からない。妙なバランス意識が働いたのではなく、元々興味があった店に飛び込むための単なる後付けかもしれない。
 焦げ茶色の木枠に八枚のガラスが嵌め込まれた板チョコみたいなドアを押し開けて中に入ると、正面の壁は一面窓で、そこから池が一望できた。店内は空いており、窓際の四卓の内、一卓を主婦三人組が、もう一卓を老夫婦が占有するのみで、手前のもう八卓は全て空席だった。
 髭を生やしたダンディな店員が近付いてきて「お一人様ですか?」と尋ねた。誰と一緒にいようと僕は一人だ、と思ったが余計な事は言わずに頷いておいた。
 彼の胸元には金色の正方形のプレートがあり、「甲田茂」と書かれていた。飲食店の店員が名札を付けて本名を示すなんて、なかなか渋い。僕は彼に「ヒゲル」の称号を贈った。それは称号でなく渾名ではないか、と問われれば否定はできない。
 希望する人が多いのか、窓際に案内されそうになったが、僕は先客たちから最も離れた入り口側の席を希望した。着席するなり、店の前のボードに書かれていた本日のお薦めのカルボナーラとブレンドを注文すると、ヒゲルはエレガントな笑みを浮かべて厨房の中に消えた。
 僕はショルダバッグから文庫本を取り出して読み始めた。周りの雑音がフェードアウトした。

 しばし読書に没頭していたが、人が近付いてきたのが気配で分かった。
 フェードインする雑音。ど、と主婦たちが笑い声を上げた。グラスの中でぶつかる氷の音。水が運ばれてきたと分かる。失礼します、と女性の声。先ほどのヒゲルとは別の店員だ。テーブルの上にグラスが置かれる。活字を目でなぞりながら、首だけ頷いて礼の気持ちを示す僕。
「あ」と女性店員が言う。思わず漏らした独り言のような声だったが、「お客様?」と続けるので僕は顔を上げた。
 すると、そこに七穂の顔があったから僕は「七穂」と呟いた。反射的な行動だ。カルボナーラを作っている時、卵を落とす前に火を止めてフライパンの温度が下がったか直接手で触って確認するが、フライパンが案外熱いとどうしても「熱い」と言ってしまうのと同じだ。
 彼女は、いつもの銀縁眼鏡こそ掛けていたが、黒髪を後ろで縛り、白いシャツの上に黒いベストを着て黒いサロンを巻いていた。ヒゲルと同じ格好だ。
「なほ?」と首を傾げる女性店員の胸の名札には、横書きで「和辻操」と書かれていた。
 わつじ……そう? あやつる? それとも右から読むのだろうか。そうつじ……かず? あやつり……つじわ? その場合ヒゲルも、こうだしげる、ではなく、しげた……かぶと? おお、更にダンディだ。
 何と読むのかは分からないが、どうやら彼女は七穂でないらしい。僕はそれをすんなりと受け入れて「いえ、何でもないです」と言った。
 どう見ても七穂にしか見えなかったが、それはただ僕の、女性の顔に対する分解能が低いだけかもしれない。或いは、彼女とは初対面のつもりだが僕が忘れているだけで、本当は何時か何処かで見掛けて、その記憶を元に七穂を作り出したのかもしれない。幽霊の存在を認めるよりは抵抗が無い。
 僕が「何か?」と尋ねると、彼女は自分の頬の辺りを指差して「ほっぺたに、何か付いてますよ」と教えてくれた。「かみ、かな?」と言うので、僕はつい「ペーパ? ヘア?」と尋ねた。言ってから、どうせ取れば分かるのだからどちらでも良いじゃないか、と思った。だが、彼女は「えっと、ヘアの方です」と律儀に教えてくれた。頬を触ると、確かに睫毛くらいの短い毛がくっ付いていたので、僕は礼を言った。
 七穂の顔をした、七穂ではない人間と話す事の違和感。しかしむしろ、その薄さに対して違和感を感じた。そんなものなのか、と。
 彼女が去った後、ヒゲルがカルボナーラを運んできた。甘さと香ばしさとスパイシネスのハーモニィを堪能していると、ヒゲルが彼女を「わつじさん」と呼ぶのが聞こえた。
 カルボナーラを平らげて読書を再開すると、和辻さんが近付いてきてチーズケーキを薦めてくれた。「うちの力作です。コーヒーと一緒に如何ですか?」と言う。
「うちの力作」という表現が、僕には「息子のりきさく」みたいに聞こえた。本当に「力作」という息子がいて紹介する場合は紛らわしいと思ったが、どちらの意味で取られても大差無いという結論に至った。チーズケーキに目がない僕は、喜んで頂く事にした。
 チーズケーキとコーヒーとミルクと砂糖を僕のテーブルの上に並べた和辻さんは、そのテーブルの端に置かれた紙切れを指して「さっきから気になってたんですけど、これは何ですか?」と尋ねた。
 僕は本から目を離す事すらせずに「宝くじの券」と言った。自分の、そのそっけない答え方に既視感を覚えた。くじ券を手に取って、本にはさんで見せて「栞の代わりです」と説明した。
 確かその前の週だったと思うが、数駅隣の古本屋からの帰り道に、買った本の内の一冊を早速歩きながら読んでいると、栞が無い事に気付いた。切符でもレシートでも付箋でも鼻紙でも何でも良いから、何か代用できる物は無いか探そうとバッグに手を掛けた、その時。長方形の紙片が足下に落ちていた。
「その時、ちょうど落ちてたんですか? すごい偶然ですね?」
「は、はあ」
 そんな事に驚く和辻さんが新鮮だった。
「もしそれで一等が当たった、なんて事になったら、もう奇跡みたいですね?」
「はあ……ええ、まあ」
 くじが当たる確率は、入手方法に依存しない。また、当たりくじの視点で考えれば、基本的には必ず誰かの手元に届くはずで、その行き先が誰だろうと違いは無い。だが、そんな野暮な発言は避け、瑞々しいレアチーズケーキの方を口にした。
「どうです? 美味しいでしょう?」
「ええ、はい」
 ノーと言わせない雰囲気で同意を求める和辻さんに対して僕は、積極的には賛同していないものの、ほぼイエスマンと化していた。ではこの壺を百万円で買いますね、なんて質問を織り交ぜられたらどうなっていたか。まあ、流石に断るだろう。

 七月の夜。それは、一年間を通して最も好きな時間帯。昼間の暴力的な熱気と光線は西に消え、涼しく仄暗く、静かで快適な夜。僕は研究室のメンバと共にK大近くの行き付けの居酒屋にいた。
「シュンジュウ、お前さ、幽霊っていると思う?」
  ——また始まった。
 森さんが柊にその質問をしたのは六回目の事だった。三ヶ月半前、僕と柊が数研に所属してから、実に六回目。これは驚異的な数値だと思う。六が最小の完全数だから驚異的なのではない。
 そのジョークを二人に伝えるのは困難だ。平均よりも無口だと自覚している僕が、普段から比較的雄弁な上にアルコールを吸収して戦闘力を更に上げた目前の二人に対して何か発言すれば、「お、遥が珍しく口を開いたな」とか「田畑さん、そんな事をいちいち数えているんですか?」とか「つうか、いくら何でも流石に六回目って事はないだろ」とか「いやいや、結構リアルな値ですよ」とか、怒濤のリアクションが行く手を阻むだろう。道は険しく、シミュレーションするだけで気が遠くなる。
「森さん、幽霊なんてものはいないんですよ」柊は顔をしかめて言った。彼も彼だ。飽きもせず、殆ど同じ返答を繰り返す。
 柊春秋。彼は学部の四年生で、僕より一学年後輩になるが、数研に所属したのは同時だ。所謂「非科学的な存在」を一切信じていないようで、その頑な姿勢は皮肉でなく微笑ましい。
 三ヶ月半の間に六回。反復する事で議論が発展しているようには見えない。いや、「反復」より「継続」と呼ぶ方が相応しいハイペースだ。クラシック音楽のように、精確にリピートする事自体に価値を見出す類の文化活動だろうか。或いは何かの訓練か修行だろうか。もしくは気の長いシュールなジョークだろうか。さもなくば、二人か僕のどちらかが記憶障害を抱えているに違いない。
「いいか、霊には幽霊、地縛霊、守護霊、浮遊霊、怨霊、お化けの六種類があってだな……」森さんは、柊を無視して話を続けた。この話も何度も聞いた。
「じばくれい」という、特定の場所から離れられない、まるで束縛電子のような幽霊のカテゴリがあるらしい。森さんから初めてその単語を聞かされた時、僕は「自爆霊」と書くと思った。人に取り憑いたらボム! なかなか物騒だ。死んでるくせに、死なば諸共か。だが、どうもその不自由な性格に相応しくない名前なので、「自縛霊」ではないかと考えた。なるほど、自分自身を縛り付けるのか。死して尚、己に制限を設ける。ザッヘル・マゾッホも吃驚だ。ところが、どちらでもなく「地縛霊」だという。
 オカルト話に花を咲かせている二人はそっとしておいて、その晩は日本酒を楽しむ事にした。出身が新潟だからか、ワインや焼酎やウイスキィよりも日本酒が好きだ。最初の一杯だけはビールを飲むが、ビールは水だ。いや、勿論ビールは水ではないが……酔っているのか? まあ、良い。極論を言えば、ビールの役割は水分摂取であり、酔いたければビールでは役者不足だ。酒といえば日本酒だろう。
 同世代の多くは、ビールやチューハイばかり飲む。現に、森さんも柊もビール党だ。そんなに麦が好きならウイスキィを飲めば良いのに、と思う。まあ、ビールは僕も飲むのでまだ理解できなくもない。あの喉越しはもう何と形容すべきか、鬼のようだ。いや、鬼を喉に通した事は無いが……何だっけ? そう、チューハイだ。ジュースよりも不味い上に高価。あれは一体、何のために存在するのだろうか。
「田畑さんは……を信じますか?」柊が何か言った。
 よく分からなかったが、どうせまだ幽霊の話をしているのだろうと判断した。交ざりたくなかったので、常々思っていた事を適当に口にした。
「夏がないな」
「はぁ……どういう意味です?」
 この反応には、ぎょっとした。説明しなくとも分かるだろう。
「君の名前だよ。柊、春、秋。夏だけがない、残念だったな」
「ええ、残念ですね」と柊は言うが、それが如何に残念かを理解しているか疑わしい。
 ただ本当に残念なのは、彼の名前に「夏」という文字が入っていない事よりも、隣にいる後輩との会話が成立しない事だ。だが更に遡れば、全ての悲劇の源は、自分と宇宙のどちらかの誕生に収束させられる。
 時計を見ると、終電の時間が近付いていた。幽霊談義に夢中の二人をよそに、お金とメモを残して僕は店を後にした。
 僕の弱さは、サイコロを振って三回とも六が出たら明日死んでも良いかな、と考えそうな所だ。そんな経験は無いが、やりかねない。
 自分を変えようとして変えられる場合、それは決意した時点で完了していると言っても過言でない。逆に言えば、決意が正しかったから成功したのであって、プロセスへの依存性はあまり強くないのかもしれない。しかし、それは通常取り得る手段、という制限があるからだ。
 あれこれと妄想をしながら、夜道を歩いた。