第一章 柊 春秋

「シュンジュウ、お前さ、幽霊っていると思う?」
  ——また始まった。
 幾度となく繰り返されたその質問を聞き、思わず僕は顔をしかめた。そして、いつもと同じように僕は答える。
「森さん、幽霊なんてものはいないんですよ」
 森和志(もりかずし)——僕の在籍するK大学理工学部の研究室の先輩で、現在修士二年生である。明るくてお調子者な性格の人なのだが、お酒を飲むとソノ手の話——幽霊、UFOの類の話をしだすのが難点だ。それもほとんど同じ話を。何度も同じような話を聞かされるこちらとしては、たまったものではない。
 森さんは大学で超平面だとか非線形空間が何とかかんとかという、小難しい数学の研究をしている割には、非科学的なものの存在を頑なに信じている。要するにオカルトマニアである。
 今も、テーブルを挟んで向かい側にいる赤ら顔の先輩は、空になったビールの中ジョッキを右手に握り締めながら、そして口からは口角泡を飛ばしながら、幽霊の存在がいかにすばらしいかを語っている。どうやら僕の返答は無視らしい。
「いいか、霊には幽霊、地縛霊、守護霊、浮遊霊、怨霊、お化けの六種類があってだな……」この話も前に聞いた。
 ちなみに「お化けと幽霊はどう違うんですか?」と以前に聞いたところ、「全然違う、ベクトルとスカラーくらい違うぞ」とよく分からない例えを織り交ぜられながら、怒られた。どうやら、お化けとは物や動物などが霊となって現れたもので、幽霊とは主に人間が霊となったものである、らしい。
「……まず、地縛霊とは……」
「田畑さんは幽霊の存在を信じますか?」
 一旦話し出すと森さんのオカルト談義はなかなか終わらない。一人で悦に入る森さんの話を聞き流し、隣で一人日本酒を黙々と飲んでいる田畑さんに話し掛ける。
 田畑遥(たばたはるか)——森さんと同じく大学の研究室の先輩で、現在修士一年。背がやたらと高い——一九〇センチはあるだろうか。そして無口である。この人が嬉々として話す姿は見たことがない。というか、そもそも笑った顔自体見た記憶がない。無口で、無愛想で、さらに背が高い——何だか「岩」とか「壁」といったイメージの人であった。冷たくて、硬い、岩。
「夏がないな」
 田畑さんはそうつぶやいた。夏って?
「はぁ……どういう意味です?」
「君の名前だよ。柊、春、秋。夏だけがない、残念だったな」
 まったく残念そうではないような口調でそう答えた。
 柊春秋(ひいらぎはるあき)——それが僕の名前だ。森さんは僕のことを音読みで「シュンジュウ」と呼び、田畑さんは「柊」と苗字で呼んだ。
 確かに「夏」だけない、そうは思ったが、そんなことを急に言われてどう答えればいい? というか僕の質問は無視ですか? とりあえず無難に「ええ、残念ですね」とだけ答えておいた。
 ただ本当に残念なのは、僕の名前に「夏」という文字が入っていないことよりも、隣にいる田畑さんとの会話が成立しないことであって、さらに遡れば、僕を含め三人の人間しかいないこの研究室に入ってしまったことであるかもしれない、と僕は思った。
「数理科学研究室」——略して「数研」、それが僕の所属する研究室の名前だ。文字通り、数学について研究するところである。しかし、僕は数学という学問が嫌いだった。いや、嫌いになった、と言った方が正確かもしれない。
 高校までの数学は与えられた質問に対して、考えて、唯一の解答を見出す、というものであった。その単純にして明快な過程が僕は好きだったし、また問題が解けた時の爽快感や達成感といったものも得られ、その感覚は問題の難しさに比例して大きくなった。また、解答が一つに収斂していく様子も楽しかった。見ていて美しいとさえ思った。それは名探偵がトリックを次々と暴いて、「犯人はあなたです」と事件の犯人に指を突き付けた時に似たような美しさであった。
 しかし、大学の数学は高校のそれとは違った。まず、問題が難しくなったということ——これは単に僕の頭のできの問題かもしれないけれども——、また、数学の答えはひとつではなく、数学というよりもはや哲学である、と悟ったことなど、色々と思った結果、高校時代に得意だった数学はいつしか苦手になった。人間というのは、得意なことが好きになる、というのは必ずしも起きることではないとは思うけれど、苦手なことは必ず嫌いになる、と思う。そんな訳で数学嫌いになった僕であるが、しかしなぜ数研に入ることになったのか。
 二%——そう、僕がこの研究室に入る確率はたったの二%だったのだ、と去年の十二月の出来事を思い返す。
 僕の在籍するK大学理工学部では、三年時の十二月に研究室の配属が決まる。その方法は、各生徒が配属を希望する研究室の名前を第二希望まで用紙に記入し提出する、というものであった。しかし各研究室では定員が決まっていて、募集人数がその定員を超えた場合には抽選——くじ引きによって配属が決定された。
 当時、三年生の僕が希望したのは「都市工学研究室」「経済学研究室」という二つの研究室であった。
 通常であれば、第一、第二希望のどちらかに配属が決まる。というのも学生の総人数に対して研究室の定員というのは余分に設定されているものであり、また、研究室の人気にそこまで偏りがないため、抽選が行われること自体多くない、はずだった。ところが——
 第一希望の研究室は募集定員十名に対し、希望者は十一名。抽選の結果、僕は落選した。また、第二希望の研究室も残り定員名四名に対し、希望者は五名。これもまた見事に落選。
 結局、毎年定員割れを起こしているこの数研への配属が決定されたのだった。百に二つの可能性を引き当ててしまった自分のくじ運の悪さをただただ呪うばかりであった。
 そんな経緯の末、僕は現在数研の先輩である、森さん、田畑さんと大学の近くにある行き付けの居酒屋にいた。
「お化けとは、物体や動物が霊となったもので……」
 森さんの話はまだ続いている。それに対して田畑さんは黙々とお酒を飲んでいるだけであって、僕はというとテーブルにポツポツと落ちる、森さんの口から出た唾の粒の数を数えていた。
「……というわけだ。分かったか?」
 六十粒まで数え終わったところで、先輩の話は終わった。
「はい」僕は答える。本当はほとんど聞いていませんでした、とは言えない。ボロがでる前に森さんに質問した。
「ところで、森さんは何で幽霊がいると思います?」
「何でって……そうだな、じゃあ反対に聞くけど、何で幽霊がいないと思う?」
「それは見たことがないからですよ」
「見たことがないってことは、いないっていうことの証明にはならない。非存在を証明することは、存在を証明することよりよっぽど難しいんだよ。すべての可能性を排除しなければならないからね」
「証明」という言葉を森さんは好んで使う。理屈っぽいその言葉の響きが、僕は好きではなかった。
「つまり、いないかもしれないということは、いるかもしれない、ということだろう?」
「まあ、そうですね」言っていることは正しいと思ったが、何となく腑に落ちなかった。
「それに」赤ら顔の先輩は子供っぽい笑顔を浮かべて言った。「幽霊がこの世にいたら、面白いじゃないか」
「そうですかね、僕は怖いと思いますけど」
「それは、映画やドラマのイメージだろう? 着物を着た髪の長い女の幽霊とか。実際は普通の格好をしているかもしれない」
 架空の話をしているのに「実際」もないと思うが。
「例えばどんなのです?」
「そうだな、頭の禿げ上がった冴えないサラリーマンとか」
「それはそれでちょっと怖いかもしれないですね」
 家に帰ると、部屋の隅にサラリーマンの霊が立っていたら少し怖い。森さんもその様子を想像したのか、「そうだな、確かに怖い」とつぶやいた。
「あれ? ところで田畑さんは?」
 気がつくと隣に座っていたはずの田畑さんがいなくなっていた。
「さぁ、トイレにでも行ったんじゃないか?」
「でもカバンがないですよ、例のアタッシュケース」
 田畑さんが持っている黒のアタッシュケースがなくなっていた。数ヶ月前から田畑さんが肌身離さず持っているものだ。まるで映画に出てくる海外のマフィアが持っているようなそのカバンの中身は誰も知らない。森さんは「あの中には札束がギッシリ詰まっているに違いない」と冗談とも付かないようなことを言っていた。
「あ、それ」僕はテーブルを指差した。テーブルの上には「ご馳走様でした。終電が近いので帰ります」と角ばった字で書かれたメモと、その上には代金が置かれている。
「あいつ帰ったのか」「いつの間に」僕たちはほぼ同時に言った。
 田畑さんは忽然と姿を消していたのだ。まるで幽霊のように。
「……俺たちも帰るか」
「そうですね」
 近くにいた女性店員に「お会計をお願いします」と声を掛けると、「はい喜んでー」とまるで喜んでいないような表情で答えた。しばらくして伝票が届く。
「代金は三九一五円です」女性店員が言った。
「そしたら一人、一三〇五円だな」森さんがすぐに答える。こんな風に一人当たりの代金を暗算で計算するのが森さんの癖だ。
「え?」と僕はテーブルを見ると、田畑さんの置いた代金はちょうど一三〇五円だった。いつの間に計算したのだろうか。
「すごいな」
「そうですね」
「でも、ちょっと怖いな」
「そうですね」
「でもぴったりの金額しか払わないのはちょっとけち臭くないか?」
「そうですね」
「カバンの中には札束がいっぱいあるのにな」
「いや、それはないと思います」

 会計を終えて店を出ると、ムッとした生暖かい空気が僕らを包んだ。途端に汗がじわじわと毛穴から染み出し、Tシャツが肌に張り付く。夜の十二時を回ったというのに、未だ蒸し暑い夜だった。
「あー暑い、暑い、暑い」森さんがぼやく。
「まぁ夏ですからね」暑いのは仕方がない。
「『暑い』って言えば言うほど暑くなると思いません?」
「お前、小学生みたいなことを言うね。じゃあ冷たいものの名前でも交互に言っていくか」そう言って森さんは「オホーツク海」と続けた。
 最初からそんなマニアックな、と僕は思うが負けじと「ツンドラ気候」と続く。「氷」とか「アイスクリーム」などといったありきたりなことを言うと、何となく知識の少なさを露呈するようで嫌だったからだ。
 それから僕らは、二人で冷たいものの名前を言い合いながら、家へと歩いた。途中「最近の彼女が俺に接する態度」であるとか「日本の景気」であるとか「冷たい」の意味が違うものもあったがそれなりに楽しんでいた。しかし、結局のところ実際に体が冷えることはなかった。
 ほとんどの店がシャッターを閉めている、人通りの少ない大学近くの商店街を歩いていると、森さんが突然立ち止まり「何だアレ?」と前方を指差した。その指の先には、電信柱に寄り掛かっている、というよりもたれ掛かっている女性の姿が見える。肩幅ほどの髪を額の前に垂らして俯いているためいるため、顔はよく見えない。
「何をしているんでしょうかね?」
僕たちは道の端に立ち尽くすその女性を横目でちらちらと伺いながらも、通り過ぎようとした。しかし、その横顔が見えた時、僕は思わず声を出した。
「あれ、もしかして……和辻さん?」
「何? 知り合い?」隣の森さんが訪ねる。
「えぇ、まぁ知り合いと言えば知り合いなんですが……」
 僕の住むアパートの隣の部屋に一人で住んでいる女性だった。フルネームは確か、和辻操(わつじみさお)。
 隣の部屋に住んでいる訳だけれども、特に交流はなく、会った時には簡単な挨拶を交わす程度の仲であった。どんな仕事をしているのかなど、詳しいことは知らない。
「あの、和辻さん……ですよね?」僕は俯く女性に声を掛ける。
 途端、びくっと肩を震わせ、弾かれたように女性は振り向き僕を見た。そしてはっと息を吐き、「あぁ、柊さんですか、こんばんは」と少し間延びした声を出す。
 正面から見た彼女の顔は、頬がほんのりと赤く染まり、銀色のメタルフレームの眼鏡の奥の目はとろんとして今にも閉じそうだった。
「あの、もしかして酔ってますか?」僕は尋ねる。
「よ、酔ってませんよ」和辻さんは答えた。明らかに酔っている声で。
「本当に酔っている人に限ってそう言うよな。つまり彼女は酔っている。あれ? でも本当に酔っていない場合はどう答えたらいいだろう? 『酔ってません』と答えても『酔ってます』と答えても酔っていることになるよな。なぁシュンジュウ、どう答えたらいいと思——」
「——大丈夫ですか? 和辻さん」
 よく分からないことを言っている森さんを無視し尋ねた。すると、彼女は突然、「うっ」と妙な声を上げて、僕にしがみついた。そして、次の瞬間——
 その光景は、まるで、すべてがスローモーションになったように、はっきりと、そして鮮明に見えた。僕の胸に飛び込む和辻さん。突然のことにたじろぐ僕。彼女の香水の甘い香り。花をくすぐる漆黒の細い髪の毛。口を開く彼女。鼻を突くアルコール臭。そして、「うぇっ」という声。僕のTシャツ。そこに飛び散る吐瀉物。そして——僕の悲鳴。
「うわぁ!」そう、つまり、彼女は嘔吐していたのだった。僕の服の上に。
「あのさ、シュンジュウ。俺、急用を思い出したから帰るよ」
 呆然と立ち尽くす僕を他所に、森さんは足早に立ち去った。
 残されたのは、酸味の効いた吐瀉物の香りと、道端で寝息を立てる彼女だけであった。
  ——最悪だ。
 僕は誰にともなく毒付いた。

 どれだけ彼女を置いて家に帰ろうかと思っただろう。しかしそこまで薄情になれなかった——いや、実際には起きた彼女に文句の一つでも言ってやろうと思った僕は、彼女を揺り起こした。
「あの、起きてください。こんなところで寝ちゃまずいですよ」
「……はい……何ですか?」
 目を覚ました彼女は、なぜか不機嫌そうにそう言った。不機嫌になりたいのは僕の方で、「何ですか」もこっちのセリフだ、と心の中で毒付く。
 彼女は、僕の顔と、僕の着ているTシャツの染みを交互に見比べ、はっ、という表情を浮かべる。そして、
「ごめんなさい! ごめんなさい!」となぜか二回謝った。
「ごめんで済めば警察は要らないんですよ」
 そう言った後僕は、自分は今、すごく嫌な奴だな、と思った。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」再び二回謝る彼女。
「『ごめん』は一回で良いって親に習わなかった?」
 そう言った後僕は、それを言うなら「『はい』は一回で良い」だな、と思った。
 すると彼女は、少し俯いて「……親はいません」と言った。
「え……あ……、ごめん……なさい」思いもよらぬ彼女の発言にしどろもどろになった僕は、思わず謝る。
「あ、良いんです。私の方こそごめんなさい」和辻さんは取り繕うように言う。
 何だか、ごめんなさい、の堂々巡りになってしまった。まるで炭酸の抜けたコーラのように、怒る気力がしぼんでしまった僕は、彼女に言った。
「……とりあえず、帰りましょうか」「……はい」

 二人並んで夏の夜道を歩く。道路の両端に並ぶ電灯の他に明かりはなく、僕たち以外に周りに人は居ない。日中、ヒステリックな鳴き声をあげていた蝉の声も止み、静かだった。太陽の熱を吸い込んだアスファルトからはムッとした熱気が立ち上り、時折吹く風も熱気と湿り気を帯びている。
 隣を歩く和辻さんは頬はまだ赤いながらも、吐いて少しはスッキリしたのだろうか、酔いは少し醒めているようだった。
「ところで、こんな時間まで何をしていたんですか?」
 時刻は午前十二を回ったところであり、女性が一人で街を歩く時間としては遅かった。
「発散したかったんですよ」彼女は言った。
「発散?」どういう意味だろう。
「さっき言いましたよね、両親は居ないって」
「はい」
「うちの両親、私が三歳の頃に離婚しちゃって、それから母と二人で暮らしてたんですけど、母も私が高校を卒業した時に死んじゃって」彼女はこともなげに言う。
「………」何を言ったらいいか分からない僕は黙って彼女の話を聞く。
「それで、私は大学に行くお金もなかったから、バイトしながら生活してて、まぁ簡単に言えばフリーターですね。父親の援助、と言うか養育費もあったから何とか生活できてたんですけど、数ヶ月前からそれも止まっちゃって……」
「………」掛ける言葉が見当たらない。
「で、バイトも増やさなきゃいけなくなって、そんな時、ふと思ったんですよ。いつまでこんなことしてるのかなって。いつまでこんなことしなきゃいけないのかって。それで、何か心の中のモヤモヤというか、ストレスというか、そういうのを発散したい! って思って、それでバイトの帰りに近くの居酒屋に入って、何と言うか」
「ヤケ酒を?」
「ええ、そんなところです」
「それで、どうでしたか、スッキリしましたか?」
「余計に気持ち悪くなっただけでしたよ」
 そう言って、彼女はうえっ、と舌を出した。
「でも」
「でも?」
「少し気分が晴れましたね」そう言って彼女は微笑んだ。
 強い人だな、と僕は思った。両親が居なくて、それでも一人で働きながら生活している彼女は、大人で、そして、たくましく見えた。
「ところで、和辻さんって、今いくつなんですか?」
「レディに年齢を聞くのは失礼だって親から習いませんでした?」と言って悪戯な笑顔を浮かべた。
「それは失礼しました」僕も釣られて笑う。
「十九歳です」
「十九?」僕より三歳も年下だ。
「何ですか? それは、老けてるってことですか?」
「いや、そうじゃなくて、大人っぽいから」
 彼女の格好を改めて見てみる。背は一七〇センチくらいで、女性にしては高い。ジーンズにTシャツというシンプルな格好ながらも、細くて背の高い彼女には似合っていた。また銀縁の眼鏡と、肩に掛かるくらいの短い黒髪が知的で、大人びた印象を与えた。
「まぁ、色々苦労してますからね」彼女は冗談めかして言う。
「でも偉いですよ、一人で働いて、生活しているって言うのは。親の脛かじって大学でダラダラ過ごしている僕からしたら、信じられないですね」言ってからしまった、と思った。彼女には親がいない。「あ……ごめんなさい」
「いえ、全然気にしてないんで。でも、大学生なんですね、柊さん。羨ましいなぁ。どこの大学なんです?」
「K大学です。この近くなんですけど」
「へぇ、優秀なんですね!」
 僕の通うK大学は全国でも上位に入る大学だった。僕はちょっと良い気分になる。「それほどでもないですよ」
「またまた、謙遜して」尚も彼女はおだてる。
 それにしても、彼女は陽気な人だった。まだ少し酔っているのかも知れないが、ニコニコと楽しそうに話す。
「楽しそうですね」
「何がですか?」
「いや、よく笑っているから」
「あ、それはですね、母の遺言なんですよ。『辛いことがあったら、笑い飛ばせ』って。母が言うには、人生の九割は辛いことで、残りの一割が楽しいことだって。でも人生の九割が辛いことって言うのは割が合わないですよね? だから辛いことは笑って忘れて、残りの一割の楽しい人生を存分に楽しもうって。うちは貧乏だったけど、笑顔は耐えない家でしたよ」彼女はそう言って、また笑った。
 人生、辛いことが九割、楽しいことが一割。辛いことは笑って忘れる。ネガティブなのかポジティブなのか分からない言葉だ。でも、「良い言葉ですね」僕は言った。
「はい、私もそう思います」

 静まり返った夜の道を、僕たちは話しながら歩いた。次々と紡ぎだされる会話の糸は途絶えることなく、僕は過ぎゆく時間や、夏の暑さや、Tシャツの染みすらも、少しの間忘れていた。
 気がつくとアパートの前に着いていた。築二十年を越えているアパートは壁が所々黒ずんでいて、階段を上るとギシギシと軋む音がした。
「二〇三」と書かれたプレートの付いた扉の前に着くと、僕は和辻さんに声を掛けた。「じゃあ、お休みなさい」
「あ、その前に」彼女は僕を呼び止める。「クリーニング代」
「あぁ別に良いですよ、どうせ安物だし。それに——」
 お金ないでしょ、と言おうしたが、やめた。
「今、私がお金を持ってないって思いませんでした?」
「そんなこと」実は思いました。
「私だってそれくらいのお金は持ってます」と言って彼女は腕に掛けたバッグから財布を取り出し、中を空けた。しかし、「あっ」と言って財布を閉じる。チラッと見えた財布の中には紙幣が入っていなかった。彼女は気まずそうに僕の顔を伺い、「家の中から取ってくるので、ちょっと待っててください」と言って、再びバックの中に手を入れる。しかし、再び「あ」という声。
そして、「どうしよう、カギがない」と言った。
「え?」

 それから和辻さんはバッグを逆さまにして中身をすべて改め、ポケットの中も確認したが、結局カギは見当たらなかった。
「どうしよう、どうしよう」彼女は焦っていた。
「どこでなくしたかは覚えていない?」僕は言ってみたものの、数分前だいぶ酔っていた彼女の姿を思い出し、覚えているはずがないな、と思い出した。案の定、
「覚えてません、まったく」と彼女は答えた。
「合鍵は?」
「持ってません」
 今から来た道を戻って探してみても外は暗いし、探すのは困難だろう。かといって大家さんに借りようにももう寝ているだろう。しかも、このアパートの大家さんは七十を過ぎたお婆さんで、耳が遠い。インターホンではなかなか起きない。
「それなら、うちに泊まりますか?」僕は提案した。
「いや、それはちょっと……」と彼女は遠慮した。
 確かに、初めて会ったも同然の僕の部屋に泊まるのは抵抗があるだろう、しかし、「言うのも何なんですけど……お金持ってないですよね」
「………」
「あの、別に何かしたりするわけじゃないんで。ただ心配なだけなんで。本当なんで」必死になって説得する。でも逆に怪しく聞こえてしまう、そう思うのは僕だけだろうか。
「……泊まらせてもらいます」結局、彼女は折れた。
「そしたら、ちょっと待っててください」
 僕はアパートのカギをポケットから取り出し、扉を開けた。
 玄関に足を踏み入れる。
 しかし、素早く足を引き、扉を閉めた。
「どうしました? 別に部屋が汚いとかだったら構いませんけど……私の部屋も汚いですし」彼女が遠慮がちに言った。
「いや、そういうわけじゃなくて……」僕は言った。
 扉を開けた時に、一瞬、人の姿が見えたのだった。
 僕は一人暮らしで同居人は居ない。
 あの人影は何だ? 泥棒か?
 いや、でもカギは閉まっていた。それにこんなボロアパートに泥棒が入るとは思えない。
 そうだ、気のせいだ。多分、気のせいだ。
 そう思うことにして、再び扉を開ける。すると、部屋の中に、人影はなかった。
 あぁ、やっぱり気のせいだったんだ。
 そう思って玄関に入ろうとした瞬間、扉の影からヌッと人の顔が現れた。四十歳ぐらいの男の顔、そしてその口が開き「こんばんは」と言った。
「うわぁ!」「きゃぁ!」
 テノールとソプラノ、二つの悲鳴がアパートに響き渡った。

「け、警察」かろうじてそれだけ言った僕は、震える手をポケットに突っ込み携帯電話を取り出す。そして一一〇番を押そうとボタンに手を掛けると、目の前にいる男が扉の影から姿を現し、真っ白い手を差し出してきた。とっさに手を振り払おうと、男の手に向かって左手を振ったが、手は空を切った。
「え?」確かに男の手を叩いたはずだったが、まったく感触がなかった。
「落ち着いてください、何も危害を与えるつもりはありません」
 男は言った。そしてさらに言葉を続ける。
「実は私、幽霊なんです」
「はい?」僕の頭は完璧に混乱していた。
「幽霊なんです。信じてください」男はもう一度言った。
 手に持った携帯電話が指をすり抜け、床に落ち、カツンという金属音を立てた。その音にハッとした僕は我にかえる。
 落ち着きを取り戻しつつ、男の姿を眺める。全身黒いスーツに身を包み、ネクタイも黒であった。喪服のように見える。次に顔を見る。額の後退した頭、残り少なくなった髪をごまかそうとするかのように後ろに撫で付けた髪型、への字に下がった眉、目じりの下がった目、どこか貧相な顔立ちだった。しかし、普通の人間とは違い、顔は青白かった。
「で、出てってください!」僕は男に向かって叫ぶ。
「いや、出ていきたいのは山々なんですが、出られないんです」
「何を言っているんですか。そんなわけないでしょうが」
「この部屋から出られないんです」
「?」この男は何を言っているのだろうか。
「とにかく、私の話を聞いてくれませんか」男は下がった眉をさらに下げて懇願した。「お願いします」
 と、隣の二〇二号室の扉が開いた。学生風の男が不満げな顔を覗かせ、こちらに向かって言う。
「あのさ、今何時だと思ってんの? 静かにしてくんないかな」
 そう言って扉を閉めた。
「とにかく出てってください」僕はもう一度言う。
「いや、ですから……」と男はなおも抵抗する。
「あの、部屋の中に入った方が良いんじゃないですか?」今まで黙って、僕の影に隠れていた和辻さんが口を開いた。
「何を言っているんですか」正気ですか、とも問いたかった。
「いや、あのですね」と彼女は二〇二号室の扉に目を向ける。見ると先ほどの学生風の男が扉の影からこちらを覗いていた。恨めしそうな視線をこちらに向けている。
「……」僕は少しの間考え、そしてスーツの男に向かって言った。「……分かりました。では手を挙げて」
 彼は訝りながらも素直に両手を挙げた。
「そのままの状態で部屋の奥に進んでください。それで窓際に立っていてください。手を挙げたままで」続けて命令する。
 男は言うとおりに手を挙げたまま部屋の奥へと進んだ。ダイニングキッチンを抜け、奥にある僕の部屋の窓際に立った。
「和辻さんはここで待っててください」僕は、彼女に声を掛け、玄関へと足を踏み入れた。玄関にある傘立てからビニール傘を引き抜き、柄をしっかりと握る。そして玄関の扉を閉めた。

 何とも奇妙な空間だった。六畳の部屋の真ん中に置かれたテーブルを境に、向かい合わせにたつ僕、そして窓際に立つ中年男。見知らぬ男を前に僕は緊張していた。傘の柄を握る手が汗ばむ。静まりかえった六畳間。その沈黙を男が破った。
「あの、手を下ろしてもいいですか」
「駄目です」僕は即座に返答する。
 この状況をどうしたものか、そう思案していると男が急に僕に向かって歩いてきた。すばやく傘の柄を男に向け「う、動かないでください」とかろうじて言う。情けないことに声が震えていた。僕の懇願とも警告とも付かない台詞を無視し、尚も歩を進める男。傘の先端が男の体に触れる。
 と、そのまま傘は男の体をすり抜けた。何の抵抗もなく、まるで豆腐に包丁を入れた時のように、すっと男の腹部に吸い込まれていくようだった。
「………」言葉が出なかった。
「これで信じてもらえたでしょうか。私は幽霊なんです。私はあなたに何も危害を加えるつもりはありません。というより何もできません。あなたに触れることさえも」
 腹部に傘が刺さったまま、男は言った。
「私の話を聞いてください。お願いします」

 河童、UFO、ネッシー、宇宙人、そんな架空の存在を生まれてから一度も信じたことのなかった僕の前に、ある日突然幽霊が現れるとは、何とも皮肉なことである。
 それもその幽霊と言うのが、先ほど居酒屋で森さんが話していたような、頭の禿げた貧相なサラリーマン風の男なのだった。
 この光景を森さんが見たらどう思うだろうか。本物の幽霊に出会えたことに喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか、あるいはその姿がこんな貧相な中年男だったということに幻滅するだろうか。
 僕はというと、初めは突然の出来事に取り乱したものの、次第に落ち着きを取り戻していた。人間は、信じられないほど衝撃的な出来事に遭遇すると逆に冷静になれるらしい。
 服を着替えた後、テーブルを挟んで向かい合わせに座り、僕は幽霊の話を聞くことにした。とりあえずまずは自己紹介から、と前置きをして男は話し始めた。
「私の名前は田中と言います。田中太郎(たなかたろう)です」
 幽霊の名前はまるで冗談みたいな名前だった。
「何かの冗談のような名前ですが、本名です。よく偽名だと疑われるんですが。あ、でも親からもらった名前に私は誇りをもっているわけでして——」
「名前の話はもう良いので、内容を話してください」僕は先を促す。おとなしそうな見掛けとは反対に話好きな幽霊だった。
「あ、ごめんなさい。それで私が死んだのは四ヶ月ほど前でして、車に轢かれて、即死でした」
「それは……ご愁傷様です」そう言ってから、ふと気がつく。「ということは話というのは、あなたを轢いた運転手に恨みを晴らしたいとか、そういうことですか?」
「いえ、そうではないんです」
「そうじゃない?」
「えぇ、むしろ運転手の方には迷惑を掛けたくらいでして」
「迷惑、ですか?」
「そうです、私から車に飛び込んだんですから」
「何だって? 飛び込んだ?」
「はい。赤信号の横断歩道を横切って車にはねられました」
 何でまたそんなことを。自殺するにしては余りにも無謀だし。と、いうことは……
「当たり屋、ですか?」
 自分から車に突っ込んだということは、わざと当たりにいったということであり、それはつまりこの人は生前、当たり屋だったのではないか、と考えた。それで当たりどころが悪くて死んでしまった。
 なんてことはなかった。
「いいえ、そういうことじゃないですよ。ただの私の不注意でして」
「不注意って……何でそんなことしたんですか?」
 赤信号の横断歩道を渡ろうとするなんて自殺行為だ。
「私には、娘が居ましてね」田中さんは唐突に話を変えた。
「はぁ」
「とは言っても、ずっと昔に離婚してしまってもう十年近く顔も見てませんが。それでも別れた妻の元にたまに会っていましたし、養育費は払っていたんです。でも二年前に妻が他界しましてね。娘は一人になってしまったんですよ」
 おや、と思った。どこかで聞いたような話だ。
「娘に会いにいきたいと思ったんですがね、住所を知らなかった。知っているのは銀行の口座だけで。それで、せめてお金だけはと思って、娘に送る生活費を増やしました。でも私の生活もありましたので余り多くは出せなくて。それで」
「それで?」
「ある日、会社の帰りに宝くじを買ったんですよ。六つの数字を選ぶくじです。ご存知ですか?」
「えぇ、知ってます」それは、一から四十三までの中から六つの数字を選び、当選番号と合致していたら当たり、と言う宝くじであった。
「それでですね、そのくじが当たったんですよ」
「へぇ、何等ですか」
「一等です」
「一等!」確か一等の当選金は一億円だった。
「そうなんです。私も驚きました。まさか一億円が当たるなんて。それで早速、お金を受け取りにいこうと銀行に向かったんですが、その途中で……」と田中さんはそこで言葉を止めた。
「その途中でどうしたんですか?」僕は先を促す。
「宝くじを落としまして……」
「落とした!?」
「はい……それですぐに来た道を引き返したんですが、私も動転していたので、信号もろくに見ないで横断歩道を渡ったところ……」
「車に轢かれた、と」
「はい、そういうことです」田中さんはそう言ってうなだれた。
田中さんに向かって僕は言う。
「話は分かりました。それで僕にお願いしたいことというのは?」大体想像はついていたが、一応聞く。
「お願いと言うのは、宝くじを探して欲しいんです」
 やっぱり。
「もちろんお礼はします。お金が戻ってくればいくらでも」
「いくらでも?」
「私にはお金は必要ないですし。娘に渡す分さえ残していただければ。どうか探してください、お願いします」
 そう言って田中さんは深々と頭を下げた。
 僕はというと、この話がどこまで本当なのかを疑っていた。
 素性の知れない男——しかも自分のことを幽霊だと言う。
 男に、唐突にこんな話をされて信じられるはずがない。
 と、ここで僕は大事なことを思い出した。和辻さんを家の前で待たせていたこを。
 時計を見るとあれから十分経っていた。
「あの、ちょっと待っててください」そう言って僕は立ち上がり、玄関へと急いだ。その僕の姿を見て、あるいは僕が逃げるとでも思ったのか、田中さんが僕の背中に声を掛けた。
「待ってください。私の頼みを聞いてください。操の……娘のために協力してください」
 玄関に向かおうとした足が止まる。今何と?
「『操』って言いました、今?」
「えぇ。娘の名前です。和辻操と言います」
 まるで小説のような話だ、と思った。話ができ過ぎている。僕は田中さんに向かって言った。「娘さんを呼んできます」
「はい?」田中さんはあっけにとられたような顔をした。
 そんな田中さんを他所に、僕は玄関の扉を開けた。

 和辻さんは壁に寄り掛かって、体育座りの格好をしながら寝息を立てていた。
「和辻さん、起きてください」軽く肩を叩いて起こす。それにしてもどこでも寝られる人だ、と思う。
「あー」和辻さんは起き上がって、体を伸ばした。
「柊さん、どうでした、大丈夫でしたか? 結局あの人は誰なんですか? あ、ところで今、何時ですか?」彼女は起きたとたんに矢継ぎ早に質問した。
「あんまり大丈夫ではないです」僕は一つずつ質問に答えることにした。「あの人はどうやら、和辻さんのお父さんだそうです」幽霊だけど、とは言えなかった。
 思いもよらぬ返答に呆気にとられる和辻さん。
 僕はそんな和辻さんを見ながら、最後の質問に答える。
「今、午前一時ちょうどです」
 そして、続けて言った。「中に入りませんか?」

「操……操なのか?」
 和辻さんを連れて玄関に入ると、田中さんが眉根をよりいっそう下げて言った。今にも泣きそうな顔だった。
「……この人が、私のお父さんなんですか」和辻さんの態度は田中さんとは対極的に冷静だった。
「ああ、そうみたいです」僕は答える。
 それから三人でテーブルを囲み、ことの経緯について話した。田中さんが幽霊であること、そして、和辻さんの父であること、一億円の宝くじのこと。和辻さんは口を挟まず黙って話を聞いた。あるいは何も言えなかったのかもしれない。
「信じられない」話を聞いた後、和辻さんは言った。その通り、僕も信じられない、と心の中で思う。
「田中さん」和辻さんは田中さんに向かって言う。娘に名前で呼ばれた田中さんは落ち込んだ表情を見せる。
「私は物心付いた時から母と二人で暮らしてきたので、父親が居た記憶ってないんです。だから急に現れても困るというか、どうしたらいいのか分からないっていうか……」
 最後の方の言葉は消え入りそうだった。
 十年以上の時を経てやってきた父親。しかもそれが幽霊となって戻ってきたのだから、どうしたらいいのか分からないのも無理はないだろう。不満をぶつけられる訳ではなく、親子の再会を喜べる訳でもない、どっち付かずの中途半端な心情を察すると、僕も何だか気持ちが暗くなった。
「でも」和辻さんは言葉を繋ぐ。「田中さんの援助がなかったら私は多分高校にも行けなかったし、今でも生活できてる訳だから、その点は感謝しています。ありがとうございます」そう言って頭を下げた。意識してそうしているのではないと思うが、その態度はひどく他人行儀で、よそよそしかった。
 田中さんは、泣きそうな表情で答える。
「いや、私こそ父親らしいことができなくて申し訳なかった。でも、私は操……操さんのことを忘れたことはなかった。ただの一度も」そう言って田中さんは、「十、四、十一、三十六、二十二、三十」と数字を唱えた。
「それは何ですか?」僕は尋ねる。
「十月四日、一一時三十六分、二二三〇グラム。操さんの生まれた時の日付と時間、それに体重です。この数字で一億円が当たったんです」この数字は奇跡の数字なんですよ、と真剣な表情で田中さんは言った。
「私はひどい父親です。勝手に出ていって、勝手に死んで。だからせめてもの罪滅ぼしにお金を受け取って欲しいんです」
「そう言われても……」実際に宝くじは落としたのだし。
「お願いします。このままでは成仏できません」それは困る。
「……少し、考えさせてください」和辻さんが言った。
 時計を見るともう二時に近かった。
「あの、話は明日にするとして、今日はもう寝たいんですが」

 僕の提案により、ひとまず今晩は眠ることになった。田中さんにはバスルームに行ってもらい、僕のベッドを和辻さんに貸し、僕はフローリングに眠ることにした。私は床で寝ます、と言って聞かなかった和辻さんだが、何とか説得しベッドを譲ると、横になった途端、すぐに寝息を立てた。僕はと言うと横になったもののなかなか眠れずに、ビールでも飲もうかと起きてキッチンへ向かった。
 冷蔵庫の扉を空け、缶ビールを取り出すと、後ろから声が聞こえた。「あの」突然のことに驚き、振り向くと田中さんだった。
「何ですか。驚かさないでください」心臓に悪い。
「つかぬことを伺いますが、操、いや操さんとはどんなご関係で?」
 どうやら田中さんは、僕と和辻さんの関係を気にしているようだった。同じ部屋に泊まっていたから心配になったのだろう。
「別に、ただアパートの部屋が隣なだけですよ。それで今日は和辻さんが部屋のカギをなくしたから部屋に泊めたんです」
「そうですか」あまり信じていない様子だった。「ならいいんですが」そういって扉をすり抜け、バスルームへ戻っていった。
 いつまでこんな生活を続けなくてはいけないのだろうか。そんなことを思うと、暗澹とした気持ちが僕の心に底に積もった。ビールを飲む気が失せてしまった僕は、缶を再び冷蔵庫にしまい、布団にもぐった。長い長い夜がようやく終わる。

 朝、トーストの焼ける香ばしい匂いで目が覚めた。台所へ向かうと和辻さんがフライパンで目玉焼きを焼いているところだった。「おはようございます」僕は声を掛ける。
「おはようございます。あ、ごめんなさい、勝手に台所を借りました」
「いいですよ、むしろ助かります」
 と、バスルームからヌッと田中さんが出てきて「おはようございます」という。まったく心臓に悪い登場の仕方だった。
 食事をテーブルに運び終え、三人が揃ったところで僕は話を切り出す。
「昨日の話なんですが、宝くじ、探してみることにします」
 昨晩、考えたことだった。まず初めに思ったことは、もしこのままだと幽霊の田中さんは一生成仏できないのでは、と言うことである。こんな家に幽霊が住み着くのはごめんだった。何とか田中さんを納得させて、平穏な生活を取り戻したい。それともう一点、もし万が一、宝くじが見付かる可能性について考えた。もし、宝くじが見付かったら一億のうち、いくらかをくれると田中さんは言っていた。もし一割としても一千万。見たこともないような大金を思い描き、僕は幽霊の依頼を受けることに決めた。とはいっても、本当に宝くじが見付かるとは思っていない。数ヶ月前になくなった紙切れ一枚を探し出せるはずがないのだ。それに誰かが拾ったとしても、まさか当たってるとは思わないで捨ててしまうだろうし、当たってると分かればそのままネコババするに違いない。警察に届けようなんていう酔狂な人は居ないだろう。
 とにかく、探すフリでも何でもして田中さんに出ていってもらおう、そういう結論に達したのであった。
「ありがとうございます!」田中さんは座ったまま頭を下げる。
「私も手伝います」と和辻さんも言った。「宝くじが見付かるとは思わないけど、このまま黙って見過ごすのも何だし、それにもし見付かったら」そこで明るく笑った。「大学にも行ける」
「ありがとうございます」田中さんは再び深々と頭を下げた。
 そういう訳で僕らは田中さんの失くした宝くじを探すこととなった。

 まず、田中さんから宝くじの落とした場所と時間を聞く。田中さんが住んでいたのはここから電車で三駅ほどの場所で、落としたのは今からちょうど四ヶ月前の三月十六日、午後二時頃だったという。
 また、なぜ死後四ヶ月も経ってから急に現れたのか田中さんに尋ねてみたが、本人にもそれは分からず、気がついたら僕の部屋に居たのだという。四ヶ月という理由については、『四』と『死』を掛けていたとか、幽霊といえば夏に出るものだというようなことを田中さんは言ったが、要するによく分からなかった。
 当時の状況について詳しく聞いていると僕の携帯電話が鳴った。相手は森さんだった。
「もしもし俺だけど、今何してる?」
「今ですか? 家ですけど」
「じゃあこれから暇? 遊びに行かないか?」
「今からですか。少し忙しいんですよ」少し迷った末、答える。「今から一億円を探しに行くんです」
「はぁ?」電話の奥で訝しがる声が聞こえる。「どういうこと?」
「実はですね……」僕は詳細を話した。僕の家に幽霊が住み着いていること、その幽霊が宝くじを当てたが失くしたこと、それを僕たちが代わりに探していること。
 話し終えると、「それは面白そうだ」と嬉々とした声を出した。「俺も手伝う」
「はぁ、別にいいですけど」
「もし見付かったら俺にも分け前をくれ」
「いいですよ」どうせ見付かるはずがないし。
 と、家のインターホンがなった。
 ちょっと待ってください、と電話口の森さんに言い、ドアを開ける。と、そこに立っていたのは携帯電話を持っていた森さんだった。
「本当だな」森さんはそう念を押し、不敵に笑った。

 お邪魔します、と僕の家に入っていった森さんは、和辻さんを見付けると「あ、昨日のげろ女」と言い、田中さんの姿を見て「お、あんたが幽霊?」と聞いた。それを聞いた和辻さんは嫌そうな顔をして「げろ女じゃありません。和辻と言います」と、田中さんは「田中太郎です」と各々自己紹介をした。田中太郎という名前を聞いた森さんは、ふっ、と少し鼻で笑った。失礼な人だ。それを見た田中さんはムッとした顔をする。
「えっと、この人は僕の大学の先輩で森和志さんと言います。宝くじ探しを手伝ってくれるそうです」
 森さんが来て早々に悪くなった場の空気を収めるため、僕は二人に紹介する。
「宝くじ探しって言うのは語呂が良くないな、宝探しと呼んだ方が良い。それにその方がこう、雰囲気が良い」
 森さんがそう言って、またもや場の雰囲気を乱した。
「田中さん、話の続きをお願いします」僕は先を促した。

「とりあえず、その駅の近くにでも行ってみるか」
 話を聞き終えた後、森さんはそう提案した。田中さんから詳しい話を聞いたが、手がかりはほとんど得られず、分かったことは、駅から十分ほど歩いたところにある自宅から、駅前の銀行に向かう途中で宝くじを落とした、ということくらいだった。
 通常、宝くじの高額当選金の引き換えには身分証の提示が必要であるらしい。もし、田中さんの宝くじを拾った人が居て、現金と引き換えたのであればその人の情報が残っているはずだ。銀行がその人の情報を教えてくれるかは別として、ほかに手がかりがない以上、とりあえず駅周辺の銀行を回ることとなった。