凛凛荘の日常

星 裕一郎

 軽いノックの音。
 雪代白兎は自室の扉がノックされた音に気が付いて、手に持っている本に栞をはさんだ。そしてゆっくりと立ち上がり、更にゆっくりと玄関の方まで近づく。自分が白熊になったと思えるほどのこの緩慢な動作は、読んでいた本の内容について考え事をしているからだ。
 昼を過ぎて、夕方と呼ばれるにふさわしい時間に差しかかったところ。
 特に客人が訪れるという予定がなかったので、白兎はぼんやりと誰だろうなどと考えた。
「どなた様?」扉越しに尋ねる白兎。
「私」聞き慣れた声の返事が返ってきた。
「私、じゃわからないよ」笑いながら白兎が言う。もちろん声で誰なのかはわかったが、読書に集中していたところを中断されたので、少し悪戯をしたのだ。
「本当にわからない?」扉の向こうからそう聞こえる。
「わかりません」
「そんな……」驚愕といった口調。「雪代くんが私の声を聞いても誰だかわからないなんて……」
 ほんの冗談のつもりが、ここまで驚かれると少し心が痛む。
「あの……、名前あたりを告げていただければ、誰なのかわかるかもしれませんけれど……」遠慮した調子で白兎は言った。
「季樹……、狗師之舞季樹です……」
 それを聞いて扉を開けた。
「こんにちは」そう挨拶をして白兎は微笑んで見せた。
 目の前に現れたのは想像していたとおりの女性、狗師之舞季樹。彼女は白兎と同じこのアパートに住んでいる。年齢は白兎の一つ下。
「こんにちは」季樹も同じように返す。
 季樹は真っ白なコートを着て、寒さで顔が少し赤く染まっている。どうやらどこかに出かけていて、自分の部屋には戻らずそのままこの部屋に訪れたようだ。
「雪代くん、私だってわかってたのにあんな意地悪言ったでしょ?」頬を膨らましながら季樹は白兎を責める。
「寒いでしょ? 中に入って良いよ」微笑むだけでそれには答えず、白兎は季樹に室内の方を示した。
「ではでは、お邪魔します」
 コートを脱ぎながら季樹は白兎の部屋に入った。
「まったく雪代くんは意地悪だ」部屋の奥で勝手に人の部屋に置いてあった本を黙って読んでいた想ヶ丘蒼維が、二人の方を向いて言った。彼もこのアパートの住人だ。
「あれ、想ヶ丘さんも来てたんですか?」目を大きくして季樹が言う。
「もちろん来ていたとも」何故だか自信満々にそう言い放つ想ヶ丘。
「もちろんって……」白兎は小さく呟いた。
 今朝白兎が目覚めるとすぐ近くに人の気配。
 うっすらと目を開けてみると、枕元に想ヶ丘が座っていたのだ。低血圧で普段は目覚めの悪い白兎もこれには本当に驚いて、瞬時に目が覚めてしまった。とりあえず状況を把握するために、そこに座っている理由を白兎が尋ねたのだが。
「今朝はここが妙に落ち着く」
 訳がわからない。
 白兎には想ヶ丘の主張がまったく理解できなかった。
 第一「ここが落ち着く」というが、それは実際にここに来て試してみて初めてわかることであって、想ヶ丘がいつまでも自分の部屋にいる限り、わかりようのないことの筈だ。つまり彼は何らかの理由があって、ここに座ってみようと思ったということ。そして白兎が本当に知りたかったのは、その理由の部分。
 それに「妙に」とは何事なのだ。人が部屋で静かに眠っている枕元が「妙に」落ち着くとはどういうことなのだろうか。
 という風に、想ヶ丘の言うことに意味など見出そうとした自分に反省した今朝の白兎であったのだ。
「雪代くんも本当に人が悪い」想ヶ丘がそう言い切る。「悪いのは雪代くん。割れるのはお皿だっ」
 また意味のわからないことを言っている。
 それに、勝手に人の部屋に入って、人が寝ている枕元に座っているのは悪くないのだろうか。
 朝からこの夕方くらいまで何の理由も告げずに人の部屋で人の本を黙って読み続けているのは悪くないのだろうか。
 白兎は次から次へと浮上する疑問を黙って飲み込んだ。
「どこかに行っていたの?」白兎はちらりとコートを見ながら季樹に尋ねる。
「ああ……、うん」季樹は一瞬俯いたかと思うとすぐに笑顔に戻って答えた。「鼓ちゃんに会いに行ったの」
「桐生さんのところ?」白兎がきき返す。
 季樹は頷いた。
 桐生鼓とは季樹の高校時代の同級生の名前だ。彼女には白兎も会ったことがあった。
「ふうん……」白兎は呟いた。それ以上何を言えば良いのかわからない。
「狗師之舞くん、寒いだろう?」想ヶ丘が陽気な口調で話しかけた。「ほら、炬燵に入りなさい。炬燵の中は夏のように暑いのだ」
 季樹は想ヶ丘の方を向いて笑顔になり、炬燵に向かった。
 このアパートの住人は何故だかこうして白兎の部屋に集まろうとする傾向がある。最初の内は嫌がっていたのだが、ここのところはもう諦めている。
「コーヒーでも飲む?」白兎は季樹に尋ねる。
「今朝、僕にはそんなことを言ってくれなかったではないか?」真剣な表情で抗議する想ヶ丘。
「あなたって人は……」呆れる白兎。
「飲む。飲みます」季樹が答える。
 白兎は三人分のコーヒーを用意して、それぞれの前に差し出すと、自分も炬燵に戻った。
「それで、今日はどうしたの?」白兎は季樹に向かって言う。理由もなくこの部屋に訪れることはここの住人の常ではあったが一応きいてみたのだ。
「えっと……」季樹は満面の笑みを顔中に浮かべながら言った。「今日は何の日でしょう?」
 さて何の日だったか。
 白兎は考えた。
 今は確か二月中旬。
 特に何も思い付かない。
 このアパートに住む誰かの誕生日だっただろうか。
 例えそうだったとしても、少なくともこれまでにそんな理由でパーティのようなものが行われたことはない。
 さて今日は何の日でしょうか。
「季樹さんも知っていると思うけど、僕の部屋にはカレンダなんてないから……」自分の部屋を見渡しながら白兎は言う。「何の日なの?」
「本当に?」少し驚いたような表情の季樹が、自分のコーヒーを飲みながら確認した。「本当にわからないの?」
 白兎は黙って頷く。
 わからないものはわからない。
「想ヶ丘さんもわからないですか?」
 それをきいて想ヶ丘は天井を見上げた。何かを考えるときは大抵彼は上を向く。
 白兎は黙ってコーヒーを飲みながら想ヶ丘の返事を待った。
「ああ……、そうかそうか」納得したという口調で想ヶ丘は言った。
「わかったんですか?」白兎がきいた。
「もちろんだとも」想ヶ丘は大きく頷いて答える。「僕は雪代くんと比較してとても常識人だからね、もちろんわかるのだ」
 常識人は主の寝ている部屋に勝手に侵入して、枕元でゆっくりとはしないだろう。
「あれ……、ちょっと待てよ……」今度は俯くようにして床の方を見つめながら何やら考え事をする想ヶ丘。
「わかったのなら教えてくださいよ」白兎は言う。
 しかし想ヶ丘はそのまま動かない。
 季樹の方を見てみると、彼女も黙って想ヶ丘を観察している。
 数十秒の沈黙。
「そうかそうか」明るい表情に戻った想ヶ丘は顔を上げてそう言った。
「何なんですか? もう……」
「そうだね……、きっとそのとおりだ。そうでなければつまらない……。それならば早急にここから退出するとしよう」言ったと同時に想ヶ丘は立ち上がる。「では若者たち、お元気で」
「え……?」想ヶ丘の背中を目で追いながら季樹が呟いた。心なしか再び頬が赤みを帯びている気がする。
 とにかく想ヶ丘は出ていってしまった。
「あらら、行っちゃった……」白兎は独り言を言った。
 どうして早急に彼が出ていかなければならないのか理解できない。
 一体、今日は何の日なのだろう。
「季樹さん、もう良いでしょ。教えてよ」
「もう……、雪代くん……。しょうがないなぁ。えっと……」季樹は言いながら持っていたバッグの中に手を入れた。
 その様子を黙って見ている白兎。
「これこれ」
「何?」素直に質問する白兎。
「じゃーん」自ら効果音を口にして季樹はバッグから箱を取り出した。それを白兎に差し出す。
「これ、何?」白兎は再び質問をした。
「本当にわからないの?」
「うん」さっきからそう言っているでしょ、とは言わない白兎。
「鈍いなあ、雪代くんは……」呆れたような顔付きになって季樹は言った。
 白兎は受け取った箱をまじまじと観察する。
「チョコですっ」勢い良く季樹はそう発音した。
 白兎は思わず季樹の顔を見た。
「ああ……、チョコね……」そう言ってから、ようやく今日が何の日だったかを思い出した。
「チョコなのです」
「どうもありがとう」白兎は礼を言った。
「いえいえ」季樹も軽く頭を下げる。
 そういえば季樹にこういったものを貰ったのは初めてだということに白兎は気が付いた。
「それにしても想ヶ丘さん、どうして出ていったんだろう……?」季樹が恥ずかしそうに小声でそう言った。「もしかして雪代くん……」
 顔を赤くした季樹がすぐ目の前に座っている。
 しかし白兎の意識に季樹の存在はない。
 季樹の発言の前半部分を聞いて、白兎はある出来事を思い出したのだ。
 想ヶ丘がこの部屋を出た。
 早急に退出する、と言って出ていった。
 まずい。
 白兎はそう思った。
「季樹さん……」白兎は言う。「想ヶ丘さんの部屋にでも……、行こうか……」
 ぎこちない口調に違和感を感じたのか、提案があまりお気に召さなかったのか、意外だという表情で季樹はこちらを見た。
「さあ、早く……」言いながら白兎は立ち上がる。
「どうして?」季樹は尋ねる。
「良いから……、とにかくここはまずいって……」
「まずいって何がまずいの? せっかく想ヶ丘さんが気を利かせて二人きりにしてくれたのに……」
 恥ずかしそうに俯きながら声をフェイドアウトさせてそう言う季樹の手を握って、白兎は彼女を立ち上がらせた。
「違うんだよ」白兎は真剣な表情でそう言った。「あれは気を利かせたとかそういうことじゃなくて……。まあいいや、とりあえずここから出よ……」
 白兎がそこまで言った瞬間。
 すぐ近くで大きな音。
 遅かったか。
 それが白兎の感想だった。
 何が起こったのか。
 大体音の種類で見当が付く。
 それでも。
 音のする方に顔を向ける。
 そこでは予想通り。
 窓のガラスが飛び散っていた。
 そして窓から。
 窓を破壊した勢いをそのまま利用して何者かが部屋に侵入する。
 それが誰なのか。
 これにも大体見当が付いていた。
 こんなことをする人間は世界中を探したってそれほど存在しないだろう。
 こんなことをする人物と言えば。
「こんばんはなりぃ」派手な登場場面を演じて見せた彼女は、そう挨拶をした。
「もう……、またですか……」苦笑いの白兎。「御月さん……」
 御月凪。
 彼女もこのアパートの住人。
「喜べ。今年もウサギのためにチョコ、持ってきてやったぞ」
「それはそれは……」それしか言えない白兎。
 にっこりと微笑んで、足元に散っているガラスを蹴っている御月。
 突然、背後で扉の開く音がした。
 振り返って見てみると、どうやら想ヶ丘が戻ってきたようだ。
 黙って悲惨な窓を見ている想ヶ丘。
 そして。
「去年に比べて登場が地味だったんじゃないかな?」御月に向かってそう言う想ヶ丘。
「やっぱりそう思います?」それを聞いて御月はぱっと明るい表情になると、嬉しそうに話す。「いや……、私もこれじゃちょっと地味かなって思ったんですけどね……、これ以上準備に時間がかけられなくって……」
 この人たちは何を考えているのだろう。
 人の家の窓からそのガラスを粉砕して侵入する方法のどこが地味なのだろう。
 しかし確かに去年の方が派手だった気もする。
 去年のその光景思い出して白兎は肩を竦める。
「凪さん、去年はどうやってこの部屋に入ったんですか?」楽しそうに季樹はそう尋ねた。季樹がこのアパートに引っ越してきたのは去年の春なので、そのときのことを知らないのだ。
「聞かない方が良いと思うよ……」白兎は言う。
 そう言って諦めたように溜息をついた白兎は、ガラスが砕け散った窓から外を見る。
 見上げた夜空では雲の切れ目からそっと月がこちらを覗いていた。